前回から続く大学改革の迷走の続編です。
この記事を読むと次のことがわかります。
☆メディアによる大学改革報道は道徳劇である
では、みていきましょう。
大学改革をすすめてきた人々
大学崩壊の張本人達
大学を崩壊させてきた悪は以下になります。
詳述するまでもなく想像がつくでしょう。。
これら各組織が好き勝手に「教育はこうあるべき」と言い合い、誰もが責任をとらずにすすんでいってしまうわけです。
失敗をいかすために 「クローズド・ループ」を避ける
しかし、ここで著者の佐藤氏は「悪役さがしをしてもしょうがない」といいます。
そんなことをしても物事は改善されることなく、失敗から学べずに終わってしまうからです。
マシュー・サイド『失敗の科学』によれば以下のようにかかれているみたいです。
引用します。
何か間違いが起こると、人はその経緯よりも、「誰の責任か」を追求することに気をとられる傾向がある。・・・・・・何かミスが起こったときに、「担当者の不注意だ!」「怠慢だ!」と真っ先に非難が始まる環境では、誰でも失敗を隠したくなる。しかし、もし「失敗は学習のチャンス」ととらえる組織文化が根付いていれば、非難よりもまず、何が起こったのかを詳しく調査しようという意思が働くだろう
これをサイドは「クローズド・ループ」と呼んでいます。
間違いを反省しないで、非難するだけで終わってしまうために、失敗をいかせない状態のことです。
ここから佐藤氏は二つの提案をします。
(1)悪者さがしの構図それ自体を相対化すること
(2)失敗に至るまでの経緯を確実なデータにもとづいて明らかにした上でその経緯から教訓を学んでいくこと
悪者探しをしてしまう大衆とメディア
誰かが何か悪いことをしたとき、メディアはある人物を悪人として仕立て上げ、その人を面白おかしく揶揄します。
たとえば、卒業アルバムをもってきたり、「アニメが好きなやつだった」という意見を紹介してみたり。
しかし、これがその人の犯罪といったい何の関係があるというのでしょうか。
単にステレオタイプの偏見をメディア上にうつし、一般大衆達を面白がらせるだけの情報にしかすぎませんよね。
なぜメディアはこういう報道をするのでしょうか。
そして一般人はどうしてこういったくだらない内容をみてしまうのでしょうか。
メディアは脚本家になり、社会を舞台に物語をつくる
米国の社会学者オーリン・クラップは「社会タイプ」という概念を提唱しています。
『英雄・悪漢・馬鹿ーアメリカ的性格の変貌』(一九七七)という本にメディアにおける有名人の描かれ方がかいてあります。
・英雄 尊敬と崇拝の対象
・悪漢 社会秩序を脅かす存在
・馬鹿 軽蔑と嘲笑の対象
メディアはとある事件がおこると、その事件にまつわる人間達をこの三タイプに分けて、報道しているというのです。
いってしまえば、「社会タイプ」=道徳劇です。
日本における英雄、悪漢、馬鹿
では、日本の大学改革において、誰が「英雄」であり誰が「悪漢」であり誰が「馬鹿」なのでしょうか。
図をみてください。
実に的確に日本の現状をあらわした図だといえるでしょう。
英雄=アメリカ。
アメリカを模倣することが正しいという価値観の日本の存在は誰もが納得できるとおもいます。小英雄=スーパーグローバル大学のように、英雄アメリカの要素をとりいれ、改革の象徴として存在する英雄。領域では一つを占めているが、あくまで部分的な存在として考える。
大悪人、小悪人=政治家や官僚や企業などです。
馬鹿領域=セクハラや不正などをおこした大学の先生たち
これらの4つ(厳密には3つ)の存在がそれぞれ影響を及ぼし大学改革はなされてきたのでした。
たとえば、馬鹿領域で何かがおこると「英雄=アメリカ」の例が出されて、「アメリカ風にすればこんなことはおこらない」というふうにいわれます。
そこに「企業や政治家や官僚などの悪漢領域」の人々がでてきて、「小英雄=改革の象徴=スーパーグローバル大学」のような制度をつくろうとします。
つまり、中身は「スカスカ」で実質などないのですが、演劇的に表現されることで「本当にその改革をすれば、教育はよくなるのだろうか?」という面は一切無視され、「教育改革の劇をみて、おもしろかったなあ」で大衆もメディアも消化してしまうのです。
本当は、中身について考えなければならないはずです。
しかし、誰もが現実から目を逸らしている。
今、日本はそういう状態にあります。
エビデンスは政治において機能し得るか
政府もエビデンスの大切は認めている EBPMとはなにか
実は大学改革においてもエビデンスを重視する企図はありました。
政治や行政の世界ではEBPM(Evidence-Based Policy Making)とよびます。
内閣府EBPM推進委員会2017によれば以下のようかいてあります。
政策の立案の前提となる事実認識をきちんと行い、立案された政策とその効果を結びつけるロジックを踏まえ、その前提となるエビデンスをチェックすることで、合理的な政策立案に変えていこうということ
いや、これは素晴らしいですね。
きちんと事実を集め、検証し、政策を充実させようというのです。
「日本の大学はダメだ論」にはエビデンスがない
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という一九七九年に出版された本があります。
著者はハーバード大学の教授教授エズラ・ヴォーゲルです。
彼はこの本のなかで「日本の大学はだめ」といっています。
いっていますが、エビデンスは一切あげらおらず、ただ駄目といっています。
あるいはエドウィン・ライシャワーも『ザ・ジャパニーズ』(一九七九年刊行)のなかで「日本の高等教育はだめ」といったようなことを書いていますが、これもエビデンスはありません。
そして、こういったエビデンスがない「日本の教育はダメ」論というのは外国人の著作に散見されるだけではありません。
一九九〇年代から二〇〇〇年代後半にかけておこなわれた「学力論争」やそれに関連する「ゆとり教育」の是非についても、すべてエビデンスが曖昧なまま、教育についての議論がすすんでいるのです。
教育についてはどの人も一家言をもっている理由ー英語教育を例に
佐藤氏は次のようにかいておられます。
「教育については誰でも何かは言える」からに他なりません。何しろ、日本人であればほとんど全ての人が何らかの意味で学校教育の「当事者」なのです。
私ズンダもそのように思います。
どうして有象無象の人々が教育について軽々しく語ってしまうかといえば、自分たちも学校へ通い、勉強をしてきた経験があるからです。
その最たる物は「英語教育」についてでしょう。
英会話について、「日本の教育が悪いからだ!他のアジアの国々より日本人の英語の成績は悪い」という意見をよく耳にしませんか。
しかし、そういう人たちは「数学」や「社会」や「国語」や「理科」の成績はどうだったのでしょうか?
なぜ「英語」をできないことについてのみ悔しがったり、怒ったりしているのでしょうか。
論理的に考えれば、他の科目ができなかったことについても何かいうべきではないのでしょうか。
しかし、「英語」以外の科目についてはそういう声は殆どきかれません。
思うに、日本人は「語学」をナメているのでしょう。
言葉は誰でも話せる、と考えているようです。
しかし、アメリカ人やイギリス人は子供の頃から一日、十数時間は英語を聞いており、学校に通い出せば、そこでもあらゆる科目を英語で習うわけです。
そういう一日十数時間を英語に割いている人間と、一週間に数時間程度しか勉強しない日本人とが同じ能力になるわけないでしょう。
まともに頭が使える人であれば、「俺が英会話をできないのは日本の英語教育が悪いからだ!」などと簡単にいえないはずです。
「そもそも、単純に勉強してないよね、キミは。」と誰かがいってあげるべきです。
以上の例にみられるように、我々は教育について、ついつい語りがちです。
しかし、それが本当に正しいか正しくないかは、常に検証されることによって判断されるべきであり、自分の経験や思い込みによってではないはずです。
ところが、国の機関もエビデンス軽視の傾向にあることがかかれているのです。
データがない状態で進む会議の実態ー教育再生会議
教育再生会議とは二〇〇六年第一次安倍内閣時に設けられた機関です。
この機関は二〇〇七年に安倍内閣が総辞職したことにより解散されましたが、二〇一三に第二次安倍内閣のもとで再び発足しています。
目的は「二一世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図っていくため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する。」でした。
皆さんはどういった人たちがこの会議に選ばれているか、考えたことはありますでしょうか。
おそらく、教育の専門家が選ばれているに違いないと思うのではないでしょうか。
しかし、次に引用する海老名葉子氏は初代林家三平の妻であり、肩書きは「エッセイスト」です。
この本の中で紹介されている海老名葉子氏の発言を引いてみます。
若者たちを預かっておりまして、今年も、きょう卒業式の一流大学の学生が半年ほど前から「内弟子として」うちに来ております。その子の様子を見ておりますととても教養がないんです。びっくりするほど。昔の新制中学を出てきた子供より劣ります。大学を出ていながらですよね。まず言葉づかい、礼儀作法、全くなっていません。非常識を通り越しています。(中略)入口から簡単に出て卒業生になるんですから、これも不思議でございます。もっときちんとした入口をつくって、キチっと受け入れて、きちんと教育を受けさせて卒業させてやってほしいなと思います。(第三分科会[教育再生分科会]、第七会議、二〇〇七年三月二〇日、海老名葉子委員の発言)
と述べておられます。
この文章を読んで皆さんはどう思われましたか?
私は皆目理解ができませんでした。
そもそも、この人の内弟子の教養がないというのは「どうやって判断したの?」と思いますし、礼儀作法に関しても落語家に求められる礼儀を一般家庭で育った人間が知っているわけないのでは?と感じます。
つまり、「あなたの狭い範囲にいる若者への感想ですよね?」で終わってしまうような発言なのです。
肩書きよりもデータが大事
私は肩書きが「エッセイスト」でも構わないと思います。
しかし、問題なのは、その人の職業ではなくて、データに基づいて議論が行われるかどうかなのです。
「若者に教養がない」というのであれば、昔の若者と今の若者とを比較したデータをとるべきです。
そうでないと、単なる感想でしかありません。
むろん、これが井戸端会議や床屋談義なら、どうでもいいのですが・・・・・・。
専門家なら信用できるか
しかし政府も馬鹿ではありません。
この本では専門家が行った「五万人調査」の例も出されています。
ところが、この専門家のアンケートの取り方が、素人並みで、実質、何も調査できていないということが判明してしまいます。
この調査では約5億円に近い調査費がかけられていますが、何ら価値のないものだったのです。
こういったGIGO(Garbage In, Garbage out)といいます。
日本語で「屑入れ屑出し」(くずいれくずだし)と和訳されています。
優れたコンピューターでも、インプットされる情報がゴミだと、アウトプットされる情報もゴミになる、という意味です。
この五万人調査は典型的なGIGOだったといっておられます。
政治的な忖度や配慮で事実は無視されるーポスドク問題
都合の悪いエビデンスから目を背けることをPBEM(Policy-Based Evidence Making)といいます。
代表的な例として、ポスドク問題があります。
ポスドク問題とは博士課程まで行き、専門性を高めた人物が大学の職につけずに、貧困に陥ることをいいます。
一九九八年、教育社会学者の潮木守一氏は二〇一〇年時点での修士課程と博士課程の修了者数と雇用機会について次のように試算していました。
修士課程ー修了者=七万五〇〇〇人~七万七千人・雇用機会=七万三千人~八万人
博士課程ー修了者=一万八000人前後・雇用機会=一万二〇〇〇人~一万三〇〇〇人
要するに博士課程の人々は三割前後、就職がきびしいということがすでに推測されていたのです。
それにもかかわらず、大学院を増やしたいという文部大臣の諮問内容に沿った形で事が進んでしまいました。
結局、博士課程を終えても就職できずに、自殺したり、その専門性を活かせずに生きている人たちが出てきてしまったのです。
政治は科学的な根拠で動かせない
EBPMはもともと医療の世界からきた言葉でした。
EBMとはEvdience-based Medicine、科学的根拠にもとづく医療の略です。
疫学的な研究や臨床実験などの科学的研究から得られた知見をもとに、総合的に判断し、病気や患者に接することが目的でした。
しかし、EBPMは政治で使われる以上、そこにはどうしても、様々な省庁や政治家や大企業の思惑が働き、エビデンスだけを元にした政策がとられることがなかなかありません。
「妥協の産物」になってしまうのがオチなのです。
終わりに
佐藤郁也『大学改革の迷走』はどうでしか。
約四六〇頁もある大著でした。
読み応えのある本で、日本の大学改革がどのような思想やどのような方法ですすめられているのかが本当によくわかる本です。
ぜひ、教育に興味をもっておられる方には手に取っていただきたい本ですね。
軽く絶望するかもしれません。
私は、「もうだめだな、日本」とおもいました。
やはり、政治の難しさは力関係や人間関係にあります。
単純にエビデンスにだけ従うことさえできれば、ややこしくなく、良好に事が運ぶはずなのですが。
AIが政治をやったほうがよくなる、というのも嘘ではないのかもしれません。
下手に感情があると、正しい判断ができなくなってしまう。
そういうことなのでしょう。
次回の予告
次回紹介する本はまだ決めていません。
が、近頃、Twitter界隈やまとめブログによるフェミニストを馬鹿にしたものをみると、そういう本の紹介もいいのかもしれないと思いつつあります。
そうなると、どうしても性愛や恋愛についての本も読まなくてはいけなくなり、本だけで忙殺されてしまいそうですね。
では、また。ズンダでした。
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