教科書で日本を学ぶと、ありとあらゆる時代に必ず天皇の存在がありますね。
しかしながら、日本史の制度や人物などが多く載っているため必ずしも天皇がその時代ごとに何をやっていたのか分からない人は私を含めて多いと思います。
そんな方達におすすめの本、叢書があります。
このシリーズでは古代から平成天皇までを扱い、それぞれの歴史において天皇がどのような役割や生活をしてきたのかを描いています。
今回紹介するのは以下の本。
『天皇と芸能』の松澤克行氏が担当した「近世の天皇と芸能」です。
禁中並公家中諸法度は何を意味しているのか?
変わる解釈ー天皇と政治ー
徳川家康と徳川秀忠 朝廷側からは二条昭実が京都の二条城に参会して連署し、制定されたのがこの法度です。
学校でもならう有名な条文がありますね。
天子の諸芸能のこと、第一御学問なり
学ばざればすなわち古道に明らかならず、しかるに政をよくし
し太平をいたすは、貞観政要の明文なり。寛平の遺誡に経史を窮めずといえども、群書治要を
誦習すべしとうんぬん和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず、綺語たると
いえども、我が国の習俗なり。棄て置くべからずとうんぬん。禁秘抄に載するところ御習学専要に候事
「天子諸芸能のこと、第一御学問なり。」とあります。
この条文が意味するところは「天皇は政治にはかかわらず、諸芸能、特に学問をやるべきである」といわれていました。
幕府は天皇の権威が反幕府勢力に利用されたり、天皇による反乱などを押さえるために専ら文芸に務めるよう法令を定めたと解釈されていたのです。
しかし、松澤克行氏の指摘によると、これは天皇を治者として認めている文なのです。
「学ばざればすなわち、古道に明らかならず。しかるに政をよくし太平をいたすは、いまだこれあらざるなり。貞観政要明文なり。寛平遺誡に、継史を窮めずといえども、群書治要を誦習すべしとうんぬん。」とあります。
この部分は政治を掌る人間はしっかりと歴史の勉強を行う必要がある、という一文です。
すると、幕府側は天皇を治政を行う存在と見做していたということになります。
けれども、実際は官位叙任権ぐらいしか力はなかったそうです。
和歌は天皇にとって二番目に大事?ー歴史が一番、二番目は和歌ー
更に大事なことがあります。
和歌は光孝天皇よりいまだ絶えず。綺語たるといえども、我が国の習俗なり。棄て置くべからずとうんぬん。
ここで初めて「和歌」が出てきます。
つまり、第一の学問とは「儒学」であり、「和歌」は第二に天皇が身につけるべき芸能だったのです。
『禁秘抄』に書かれた和歌の順番
ただし、『禁秘抄』には次のように和歌は位置づけられていたそうです。
引用します。
そもそも『禁秘抄』の原文における文脈をたどってみると、「第一」である学問を修めることは天皇にとっていわば必修科目であるが、「第二」とされる管弦以下の音曲、そして和歌といった芸能は、学問をきちんと行った上で嗜むべき選択科目にしか過ぎないとされている。(中略)和歌はそれら諸芸能の中では決して高い順位が与えられておらず、管弦・音曲の下位に位置づけられていたのである。
というように、『禁秘抄』においては「和歌」は管弦よりも下の扱いを受けていたのです!
そう考えると、「禁中並公家諸法度」で和歌が二番目に大事なものと特記されるようになったのは、当時において意外なことだといえるのです。
管弦を二番目に書いた方がまだ分かるからです。
これには室町時代の和歌勅撰事業が将軍の執奏に基づいて行われるようになったからだといわれています。
つまり、公家が中心となっていたはずの勅撰に室町時代になると、武家政権の力が及ぶようになっていたのです。
江戸幕府が「禁中並公家諸法度」で和歌をとりあげたことについて松澤氏は次のようにまとめておられます。
第一条で和歌を特に採り上げたのは、中世における天皇と和歌との特殊な関係性を承認するとともに、法度という明確な根拠に基づき、天皇を象徴する芸能を引き続き武家政権の影響下に置こうとしたあらわれだったのではないだろうか。
私たちは昔から天皇が和歌を作り、儀式を行い、年中すごしていると考えがちです。
しかし、この時代の天皇は江戸幕府によって法度を出され、その枠組みの中で活動せざるを得ない存在でした。
漢学かぶれの天皇が誕生してしまうー読書始と逸話にみる後光明天皇ー
その影響の一つとして次のことがあります。
「禁中並公家中諸法度」が制定されたのは後水尾天皇の在位時代です。
その後、中継ぎの女性天皇である明正天皇、後光明天皇と続きます。
後光明天皇(1633~1654)こそがこの法度下での教育を受けた人物でした。
彼は11歳で皇位を継承し、読書始をおこなっています。
読書始めとは上流階級の子弟が学問を開始するときに行われた儀式です。
儒臣が学ぶべき本の表題を読み上げ、他の儒臣がそれを復唱するという儀式でした。
この中に「禁中並公家諸法度」で名前がでていた『貞観政要』が入ってるのです。
これは歴代天皇の読書始において初であり、幕府を意識した選定だとかんがえられています。
また後光明天皇は日本の和歌や文芸についてかなり見下していた逸話が残っております。
徳川吉宗の侍講であった室鳩巣の書簡を基にして編まれた「鳩巣小説」には以下の話が載っています。
後水尾天皇「我が国の風俗を忘れないようにするため、和歌も嗜んだほうがよい」
後光明天皇「古来、天下国家をきちんと治めようとした天皇や大臣に、和歌を詠んだ者などおりましょうか」
あるいは
「我が国の朝廷が衰微したのは、和歌が隆盛し『源氏物語』が読まれるようになったからである。世の中の秩序を安定させ人民を正しく導くことに努め天皇・大臣の中に、和歌を愛好した者などいない。それに、『源氏物語は淫乱の書だ」
と『源氏物語』をひたすら腐していたらしく、公家諸法度の影響下にあった天皇は儒学にとりつかれたというのがよくわかりますね。
※ただし、『源氏物語』に高い評価を与える人物はだいたい公家らで、漢学派の人たちは基本的にむかしから『源氏物語』を評価していない。
後水尾天皇がいなければ、和歌の歴史はかわっていた?
これに対して父親である後水尾天皇は何回も苦言を呈していたらしく、教訓状を三通、残しています。
別して今程、万端武家のはからひ候時節に候へば、禁中とても、万事旧例に任て音沙汰あるべき様もな体に候。万事御心を付られ御慎、専要に候か。
これは「政治権力は幕府に握られている状態で、天皇自体の個性を何処に求めるべきかといえば、和歌ではないのだろうか」というふうに読み取れます。
後光明天皇は承応三年(一六五四)に二二歳でこの世をさります。
後水尾天皇は延宝八年(一六八〇)に八五歳の天寿をまっとうしました。
後水尾天皇が後光明天皇よりも長生きであったため今の天皇にまで伝わる和歌重視の「文化戦略」が継承されたといわれています。
もしかすると、漢学重視の天皇が私たちの前に在しました可能性もあったのです。
終わりに
どの日本史の本を読んでいても、天皇の名前がでてこないことはないでしょう。
そのぐらい天皇は何時の時代にも存在しています。
しかし、その割には私たちは各時代事に天皇がどんなことをやっていたのか知らない。
鎌倉時代に入れば武家政権の時代が始まり、天皇の力は衰微し、影が薄くなっていくことも関係しているのでしょう。
平成天皇が退位されて、令和三年を迎えた今日この頃。
天皇についての知識を得たい方には是非読んで貰いたいのが「天皇の歴史」シリーズです。
中身は非常に充実しており、楽しい読書時間をすごせました。
では、またお会いしましょう。
ズンダでした。
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