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【新書】センター国語「記述式問題」見送りや英語民間試験の見送りについて考える前に 鳥飼久美子・苅谷夏子・苅谷剛彦『ことばの教育を問いなおす』(ちくま新書)を紹介する【感想】

 

 大学入試センター 国語の「記述式問題」は見送られることになりました。

www3.nhk.or.jp

 

 いったい何がダメで、何が行われているのか。

 我々、一般庶民にはわからないことだらけですね。

 

 しかし、そもそも、国語や英語の教育、つまり、「ことば」に関わる教育を我々はどういうふうに考えていったらいいのでしょうか?

 

 それが今回紹介する本、鳥飼久美子・苅谷夏子・苅谷剛彦『ことばの教育を問いなおす』(ちくま新書)で繰り広げられている議論です。

 

ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

 

  ちなみに、日本の英語教育に関心のある方は以下の書物もどうぞ。

 

 

英語教育幻想 (ちくま新書)

英語教育幻想 (ちくま新書)

 
英語教育の危機 (ちくま新書)

英語教育の危機 (ちくま新書)

 

 


 
 この記事を読むと次のことがわかります
 
 

☆見送られた「国語の記述試験」は何がだめだったのか

☆思考力を身につけたいのであれば、「書く力」や「読む力」を大切にすべきである。「スピーキング」や「英会話」を主軸にしてはならない。

  

 

 著者達の経歴

 

 この著作は三人による手紙でのやりとりを著作としてまとめた本です。

 著者らの経歴を簡単に書いておきます。

 

 

 鳥飼久美子氏は立教大学名誉教授。NHK「世界へ発信!SNS英語術講師」を努めておられます。
 
 苅谷夏子は「大村はま記念国語教育の会事務局長」です。大村はまという国語教育で偉大な足跡を残した人物の教え子で、大村はまの教えを後世に伝えていく仕事をしておられます。

 

 苅谷剛彦はオックスフォード大学教授で教育学が専門。日本の教育と世界の教育との差異や問題点を統計や理論をもって分析しておられます。

 

 

 

 基本的な構成

 

 苅谷夏子氏が大村はまの国語教育とはどういったものであったかを説明し、それに対して鳥飼久美子氏が、外国語教育に関する知見を基にして大村の考えを敷衍していきます。
 

 そこに理論家でもあり分析家でもある苅谷剛彦氏が、具体的な議論を抽象化することで、「ことばの教育」とは何なのかをまとめ上げています。

 三者の見識や専門が組み合わさることで、ことばを身につける経緯や葛藤が浮かび上がっていきます。
 
 それは単に「子供の頃から英語を教えればいい」や「これからはグローバルな社会がくるから、英語をやらなけれいけない」といった程度の低い意見とは異なります。

 我々人間にとって、言語とは何なのかを問い直し、構築していく内容となっております。

 

 今回の記事では苅谷剛彦氏の主張をみていくことにしましょう。

 

 思考力を鍛えることこそが「ことばの教育」

 なぜ記述式問題を導入したかったのか

 

 刈谷氏はセンター国語の記述式問題や英語のスピーキング試験にも賛同しておられません。

 何故かというと、思考力がつかないからです。

 

 この「思考力」という言葉は現在の教育改革において重要な位置を占めています。

 日本人は詰め込み教育ばかりで、「考える力がなく、主体性が欠如している」という批判があるからです。

 導入予定だった大学入学共通テストの「国語」に記述式をいれる予定だった理由の一つです。
 
 「思考力・判断力・表現力」は記述式問題で、計れると考えたのですね。
 
 では、本当に記述式問題で思考力がつくのでしょうか?
 

 一考すると、記述式問題のほうが受験生の思考力や学力を試すのには正しいように思われます。


 理由としては以下の通りです

 

 

マークシートのような真偽法(二つ以上の項目の中から答えを選ばせる試験)では、適当に塗っても当たってしまう。

・自分の言葉で表現しているわけではないから、主体性や論述力がつかない。

 

 センター国語 記述式問題はなぜ、見送られたか

  問題が単純でありすぎる

 

 しかし、先般、話題になった国語の記述式問題とは「正答主義(=確実な答えが一つだけある」にしかすぎないと苅谷氏は述べておられます。

 

 実際の問題例とその解答をみると、読んだ文章の「言い換え」でしかなく、個人の個性や主体性から発せられる答が求められているわけではないからです。

 

  ↓その問題点を具体的に指摘した本は紅野謙介氏の本です。*1

国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領 (ちくま新書)
 

 

 
 約五十万人の採点はムリである。

 では、なぜ「言い換え」に終始した問題をつくってしまったのでしょうか。

 それは、採点者が簡単に採点できるようにするためです。

 

 現実問題として、約五〇万人の受験生を記述式で採点することが不可能ですよね。

 しかも、採点者が足らないために、アルバイトも含めた一万人の採点要員が採点をつとめていくわけです。
 
 専門の先生や教授がやるわけでもなく、単なるアルバイトが採点できる試験。

 そんな試験に、複雑な問題など出せるわけがないでしょう。
 
 これは前回紹介した本『大学改革』にもかかれていましたが、お題目にこだわり、外見をいじっただけ改革といえましょう。

 「とりあえず、改革しました。これで文科省が仕事をした、と世間の人たちは思ってくれるぞ!」

 こういう考えなのです。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 英語のスピーキングと民営化問題

 

  これは英語試験も同様です。
 五〇万人に対してスピーキングの試験ができるわけない。

 そのために民間試験に委ねてしまい、政府は教育の平等を保つことを放棄したわけです。

 この二つの事例に共通しているものがあります。

 民営化です。

 

 政府は自分たちの財政支出を増やすことを拒んで、民間にすべてを託していきます。

 こうすると一般国民の負担ばかりが重くなり、機会の平等が失われていきます。

 現代日本で行われている民営化信奉について書いた本が、以前から何度も紹介している中野剛志氏の『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【戦略編】』です。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

  政治や教育の本を読んでいると、いや、日々のニュースをみていても「民営化って問題だらけだろ」としか思わなくなっているのですが、皆さんは如何でしょうか。

 「水道民営化」なんてニュースをみると、正気か!と思います。

 たまには↓下で紹介した本を読んで、「民営化=善」というアナーキズム*2な発想を捨ててみるのもよいかもしれません。

全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】

全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】

 

 

 書く力こそが思考力である

 書くことは難しいが、思考力をつけるには最適

 

 苅谷氏は次のようにいっておられます。

 

 口頭でのコミュニケーションと比べ、書くときにより一層意識されます。話すときとは違う、時間のかけ方、一旦表現され目の前にある文章(内容と表現)をみながら、次の内容と表現を言語化していくという過程に意を用いるということです~(中略)~頭の中での考えと言葉(表現)との行ったり来たりという反省や振り返りをどれだけ上手く使いこなすかが、ことばの力の重要なはたらきになることがわかります。

 

 といい、更に次のように続けます。

 

 英語の場合、中学生レベルの単語力でも通用するといわれますが、そのような文章は、意味は伝えられても、英語を母語とする教育を受けた大人から見れば、稚拙な表現にすぎません。留学や仕事で使うレベルの文章力とはいえないのです。

 

 

 ここからわかるのは次のことでしょう。
 
 

 会話には思考力が必要である。
 その思考力は、内容と表現とを意識して、ものを書くことからうまれる。
 うまれたものが、表現したかった内容であるかどうかを常に反省し、振り返らなければ思考力はつかない。
 
 

 そういった思考力を伴わない国語力や英会話は、児戯に等しいということです。
 
 

 会話は点検がしにくい

 

 会話には弱点があります。
 確認しづらいということです。

 

 自分の文法や単語は正しいのか。
 話した内容は相手に伝わりやすいのか。
 そもそも中身のあることを話せているのか。

 

 これらのことを逐一点検できるのは「書く行為」です

*3

 

 

 「読む行為」と「書く行為」がとにかく大事

 

 

 オックスフォードでの教育経験も踏まえてながら、苅谷氏は次のように図示しておられます。*4

 

 

読む→書く、読む→聞く、書く→話す

 

 まず、「読める能力」が大事です。
 読まないとインプットできないからですね。
 すると、「聞く能力」も向上します。
 

 人の話を聞く能力には以下のことが必要だからです。

 

  • 話を理解するための前提知識
  • 相手の議論の展開や論理を意識する


 次に「書く」ことができるようになります。

 

  • インプットした知識や単語や文法をアウトプットできるようになる
  • 相手の論理構成や議論の展開を真似ることで、自身の能力も上がる

 

 優れたインプットができない人間は、優れたアウトプットもできない

 

 つまり、「スピーキング」はこれらの最後に当たるということです。

 

 苅谷氏は「この順番を間違えると、それこそ口先だけのオーラル・コミュニケーションとなったり、内容の伴わない、議論の展開の稚拙な探求学習(の発表)となったりします」といっておられます。

 

 要は「英語がぺらぺらで、しゃべっているけれども、中身が何もない空疎な人間になる」といっておられるわけです。

 

 わざわざ教育を受けて、薄っぺらなことだけ話したり、言ったりする人間になりたい人っていますかね?

 そんなのは個人としても嫌でしょうし、ましてや国家による公教育でそんな人材を育てる意味があるのか?ともいえますね。

 

 日本の教育改革は「読む力」と「書く力」を軽視しすぎている

 

 最後に苅谷氏は次のように仰います。

 

 私見では、日本の大学までの教育は、徹底して読んで書くということをなおざりにしているように見えます。

 今の改革もそれに棹さすようです。現状でも若者が本を読む時間が国際的にも少ないというのにです。大学生が授業で読む文献の量も他の先進国にはまったく及びません。

 「読み」だけではなく、「書く」も重視されているようには見えません。そのような現状の上に、口頭によるコミュニケーション能力重視にさらに移行しようとしているのです。(段落はズンダがわけた)

 
 苅谷氏の意見と同様な見解をもつ方々が多くいらしたのでしょうか。
 
 なんとか、英語試験の民営化と記述式国語試験は見送られることになったのでした。

 

 終わりに

 

 この本の巻末で鳥飼氏が「本書をまとめるのは、とてもむずかしいことです」と書いておられましたが、実際に難しい本です。

 

 やはり、三人によるやりとりを束ねて、一冊の本にすることは困難を極めたのでしょう。

 読んでいても、どうにも隔靴掻痒の感があったようにおもえます。

 

 特に苅谷夏子氏と鳥飼久美子氏の間で、大村はまの教育について頁が割かれているのですが、大村が自分の教育方法を理論化していないので、いまいち判然としないのです。

 大村は理論化することで零れていく種々のことごとを気にしていたようです。

 

 確かに、人に教育していく際に、理論は一つの指標にはなります。

 けれども、実際に接してみると、理論通りにはいかない。

 教室の雰囲気や個人の資質による差があるためですね。

 

 こういうわけで、私が唯一、まとめることができたのが、学者であり、整然とした文章を書いておられる苅谷氏の文章だったともいえます。

 

 この本はまとまりがつかない本ですが、それを鳥飼氏は後書きで次のようにかいておられます。

 

 

 私たちは、このような曖昧な部分や不可解な部分をあえて整理しようとはしませんでした。おそらく三人とも、「ことば」という存在の複雑さと曖昧さと摩訶不思議さを所与のものとして受け入れ、その「ことば」を教えるという行為の重みを痛切に感じているから、結論を急がず、むしろ読者に考えてもらう材料にしたいという願いを共有していたのだと思います。

 そして、そのように感じている三人だからこそ、あまりにことばを単純に考えて教育改革が性急に進められようとしていることへの危惧も共有しているのです。

   

 蓋し、国語教育を考える際に我々が思い出す価値のある文章だといえます。

 

 この曖昧で定義することが困難な、言葉というものが、政策に落とし込まれたとき、どれだけのことが捨象されてしまうのか。

 

 そこに国語教育のほんとうの難しさがあるのかもしれません。

 

 では、また。ズンダでした。

 

 よかったら、ブックマーク&読者登録をお願いします。

*1:では、今までの国語教育がよかったかといわれると、私ズンダも、そうは思わないですね。

*2:

ja.wikipedia.org

*3:ちなみに外国人に日本語を教える際などは、録音録画をして、どのような点がおかしかったのを確認するようなことをやります。しかし、効率が悪い。また、相手も会話だと整理して喋るのが難しいので、本当に文法や単語などを理解しているのかはかりにくい。

*4:本書ではオックスフォードで行われている授業も軽く紹介されている。そこで、「読める能力」の価値があかされているが、この記事では煩瑣になるので省略した。そのため、突然、「読める能力」が強調されていておかしくおもわれるかもしれない。ちなみに、そのオックスフォードで行われている教授法については以下の書物に詳しくかいてある。

 

教え学ぶ技術 (ちくま新書)

教え学ぶ技術 (ちくま新書)