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【感想】障害ある人間はいきづらい、宇佐見りん『推し燃ゆ』(河出文庫)

 

 皆さん、こんにちは。ズンダです。

 今回は久々に小説を読んだのでその読書感想文です。

 

 宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』(河出文庫)です。

 私ズンダ、大学をでて以降は小説をあまりよまなくなっていたのですが、近頃、ちょっとだけ文学熱が上がっており、楽しんでおります。

 

 

 

 

 

 

 

宇佐見りん『推し燃ゆ』(河出文庫)を読了。

 

宇佐見りんの芥川賞受賞作。以前からその独特な文体に惹かれ、読みたいと思っていたが、今回、文庫化されたので一気に読んだ。発達障害と思われる主人公が親、学校、バイト先での生きづらさに困惑しながら衝突を繰り返すといった話。

 

主人公を支えるのは推し活である。

 

その推しが引退することになり、自分自身を支えるものは最終的に《自分》しかないという決然たる意志をもってこの物語は終わる。

 

先に紹介した朝井リョウの作品とやや主題が似ている。障害児という点を除けば平凡だが、

純文学の特徴は推し活にはまった思春期の障害児を如何に非凡な文体で描くかというところにある。宇佐見の文体は佶屈聱牙なものではないが、ところどころに作家としての冴えた筆致があり、一考すると凡夫でも書けそうな心理や身体部位について未曾有かつ淋漓な描写をしている。

 

それが障害があるゆえに世間的には
《デキがわるい》といわれるであろう女主人公の不憫でありながらも、やはり不気味に感じてしまう気持ち悪さのようなものを伝えており、推しへの異常な情熱も相まって怪奇小説を読んでいるような気持ちにさせる。狂癡と読んで差し支えない状態を一人の女の子に焦点させ、文学にした傑作である。

『ネット右翼になった父』という不幸なる書物について紹介する!

 

 

 はじめに

 

 

 『ネット右翼になった父』を紹介します。

 

 

 まずは以下の記事をご覧ください。

 

 

www.dailyshincho.jp

 

 近頃よくきかれるように自分の老父老母のもとに子供がかえってみると、彼らが「ネット右翼」になってしまったという話があります。

 

 このデイリー新潮に載った記事もその一つです。

 

 「ネット右翼」とは右寄りの思想をもち、それをインターネット上で表現する人々のことです。

ja.wikipedia.org

 

 この言葉を私ズンダが聞き始めたのは体感としては2000年の中盤ぐらいだったとおもいます。上のwikiに記された伊藤亮介氏の見解と同じです。

 

 しかし初出に関しては1999年のようでこれは驚きますね。まだ2chが出来る前からいわれていたとは!

 

 なお現在確認できる「ネット右翼」の最古の用例は、1999年4月29日に投稿された、当時結成されたネット右翼団体鐵扇會の紹介に遡る[25]。これは2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)の創設よりも若干だが早い。(wikiによると

https://blog.goo.ne.jp/ngc2497/e/f341ac715a8268d7948a769de9eaa515)

 

 雑誌、本に出た用例を調べることが出来るグーグルブックスを利用してみると

 「進步と改革 - 第 625~636 号 - 16 ページ」(2004)がおそらく一番早いようにみられますが、この手の雑誌で「ネット右翼」と気軽に使わないので、もっと前に遡る事が出来るように思えますね。

 

 日本では2002年の日韓ワールドカップ辺りから韓国への反感が高まります。

 また韓国だけではなく中国に対しても同様になっていきます。

 

 当時の首相であった小泉純一郎靖国神社参拝に関しての是非、また中国共産党からの尖閣諸島などの領有権問題も重なっていたからです。

 

 もちろん、北朝鮮もそうです。拉致問題が発覚したころでしたから。

 

 出版物でいえば『嫌韓流』という韓国批判をした書物がが政治漫画としては異例の100万部を売り上げます。

 

 西村ひろゆき氏が運営していた2chでは連日のように中韓への憎しみに満ちた書き込みが散見されるようになり、スレッドが何十にも及ぶほどでした。

 

 こうした動きもあって、徐々に左派系メディアから「ネット右翼」なる言葉が頻繁に言われるようになった記憶があります。

 

 

 何が書かれているのか?

 

 さて、本題の『ネット右翼になった父』は当初、講談社ではなく新潮デイリーのほうであつかわれていました。

 

 著者の父親が病気になったことで世話をするようになった。

 その世話をしていくと父親の態度が世間で言われているような「ネット右翼」のようになってしまっていた。

 

 それに驚倒し、失意を覚えた著者が死んだ父へ怒りをぶつけた記事でした。

 

 これにネットは反応しRTなどで賛否両論、

 

右翼系の人からは「ネット右翼ってなんだよ!」、

左翼系の人からは「耄碌した父親がインターネットのまことしやかなウソにだまされ、ネトウヨ化する!」

 

 という反応でした。

 

 私ズンダなども、「まあ、ネットの力ってずいぶん大きいんだな」などとみていたのですが、これが完全に翻されたのが本書『ネトウヨになった父』です。

 

 簡単にいってしまうと、著者の鈴木大介氏による「懺悔の書」です。

 

 この懺悔とは「自分の父親をネット右翼だと決めつけ、それをインターネット上の記事に書いて、晒してしまった」ということです。

 

 そもそも著者は成人以降、病気になるまで父とは疎遠で、自分の親がどんな人生を送り、どんなふうに妻や姉と接し、どんなふうに思想形成をしていったのか全くしりませんでした。

 

 典型的な核家族であり、姉は離婚したがために実家に先にもどっていました。

 

 病に冒された父の世話をするために実家、病院へ顔をだすようになってから関係が深くなります。

 

 父の没後、

 父はほんとうに「ネトウヨ」だったのだろうか?と疑問に思うようになります。

 

 母や姉、父の友人と叔父などに

「父との関係性や父の思想、学歴、社会人生活、読書遍歴」を聞くことで彼がどんな人物だったのかが明らかになっていきます。

 

 以前も紹介した『東大生、教育格差を学ぶ』に書かれている社会学者・岸政彦氏による「他者の合理性」ですね。

 

 《「私」からみた「他人」の「不合理」というのは、「他人」にとっては「合理的」である。》ということです。

 

 そしてこれは、その人がどんな人生を送ってきたのかを聞き取りすることでしかわかりません。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 今回の鈴木氏の場合、病後の父を看ていたその数年間だけを切り取って、父親は「ネット右翼になったんだ!」という像をつくりだしいました。

 

 しかし、調査の結果彼は「父親はネット右翼ではなかった」と述べます。

 

 父がインターネットを通してネトウヨになったという思い込みは以下の理由で否定されていきます。

 

①鈴木氏、自体がリベラルであったため偏見があった。ネトウヨがなんなのかもともとわかってなかった。

②そもそも父親の世代では中韓に対して嫌な記憶があったので普通のことだった。

③父は学生運動のような集団で行動するような人々を学生だった当時、嫌悪感をいだいていた。その後の学生運動の顛末から左翼嫌いになった。

 

 要するに、父親の人生の歴史を考えると、左翼を嫌うという理由がしっかりと存在していて、この本で定義されているネット右翼のそれとは全く異なる人物だったことが分かり、ネトウヨと呼べないと結論づけます。

 

 

 この本は歴史学やミステリー小説のようです。

 

 特に前哨戦である「デイリー新潮」の記事を読んでいると、人はここまである人物における評価を変えることができるのか、と思わざるを得ません。

 

 私たちは自分の思い込みに則って人を裁断しているのです。

 

 なんならこれが核家族時代における病弊といえるのかもしれません。

 

 私たちは家をでたあと、自分の父母と向き合う機会がないままお盆や正月の時のみ実家に帰り、年老いた椿萱(けんどう)に再会し、ある日、突然死した訃報を受けて死者に再会する。

 

 そんなことが普通になっています。

 もちろん最近は家族暮らしが増えつつあるといわれているので将来的にはどうなるかはわかりませんが。

 

 とにかく、両親のことを就職以降、何もしらないままで放置してしまう。

 そして都合良く家にかえってきて「おまえはネトウヨだ!」といってしまう。

 

 こんなに失礼で孝養に背いた話があるでしょうか。

 

 「デイリー新潮」で騒いでいた人たちの呆れるほどの沈黙

 

 私ズンダはこの本を読了した後、Twitter上で感想についてしらべていたのですが、

あまり見当たりませんでした。

 

 個人的には左派系の人の反応をしりたかった。

 私の知る限りだと。彼らは「老人というものは痴愚であり、すぐにネットに感化、洗脳され、ネット右翼になってしまう」という見方をしているのですが、そんな人々がどう反応しているのかしりたかったのです。

 

 更に言うと、この本の表題だけみて反応している人もいたからです。

 

 それは私ズンダもですが、ちょっと知っている人はこの表題をみて、「ああ、ネットの見過ぎで孤独な高齢男性がネット右翼になってしまったんだな」と思うでしょう。

 

 それゆえTwitter上では、この本の題名から「ネットのフェイクニュースの危険性」などと結びつけ熱を吹いている人たちがいたのです。

 

 けれどもこの本が実際に出版されてみると、彼らはこれに触れてない。

 

 私は本当にれてしまいましたね。

 

 彼らがやりたかったことは、この本の題名だけを消費して自身の意見を代弁させることにあったわけです。

 

 本を読む、という考えなど毛頭もなかった。

 

 また読んだとしても「ネット右翼になった老父のことではなかった」と正直に話すことができなかったのでしょう。

 

 というのもこれは、自分自身に返ってくる可能性があるからですね。

 

 「おまえは、ネトウヨだ!」と自身の父を勘違いして侮罵してたこの本の著者・鈴木大介氏と同じことをしているかもしれない。

 

 それを自覚するのが嫌という人は意外にいるのではないでしょうか?

 

 これこそ鈴木氏が伝えたかった事のように思われます。

 

 「お前は相手のことをちゃんとしった上で、レッテル貼りしているのか?」と。

 

  終わりに

 個人的には傑作です。今年も上半期が終わりましたがネット右翼に興味のある人、あるいは人はどのようにして判断を誤るのかを知りたいと思っている方におすすめです。

 

 またネット右翼について知りたい方のために類書を貼っておきます。

 

 最近、記事の有料化やサブスクライブもはじめました。読書代がほしいからです。

 皆様からの支援を賜りたく存じます。

 

 では、また。ズンダでした。

 

 Twitter上での感想まとめ

 以下はズンダがこの本を読んだときのTwitterで書いた感想である。

 「ズンダ@読書垢@zundanobook」が私の読書アカウントなので

興味のある方はフォローをどうぞ。

 

 

ネット右翼になった父』(講談社現代新書)を読了。
思いがけない傑作。
父親はネトウヨだったのか?という検討から始まり、最終的に、意思疎通をしてこなかった自分が、父をネトウヨだとおもいこんでいただけだった!と結論づける。ミステリーを読んだような読後感。


リベラルだから、自分の父親をネトウヨよばわりしてしまうの、あまり話題になってないが、かなり多いんじゃないだろうか。


レッテル貼りする志向性は右翼左翼かかわらず、政治に興味をもつからこそ生じてしまうんだろうな。だから、母や姉は父をそうみてはなかった。

 

ネット右翼になった父、は高齢者がネトウヨになった話ではないので、Twitter上でタイトルだけ見て語りだす人をみると、「あっ、この人」ってなってしまう。

 

リベラルだから、自分の父親をネトウヨよばわりしてしまうの、あまり話題になってないが、かなり多いんじゃないだろうか。


レッテル貼りする志向性は右翼左翼かかわらず、政治に興味をもつからこそ生じてしまうんだろうな。だから、母や姉は父をそうみてはなかった。

 

親父と息子ってむずかしいよね。どんなやりとりしていいかわからないよね。実際。その結果がこの本なんだよな。献歌みたいな本。

 

ネトウヨになった父、ほんとうに傑作だわ。これをよまないのはもったいない。父と子の別れをかいたものとして白眉。

 

 参考図書案内

下記の本はネット右翼に関する本である。右から左までネット右翼に関する論は多い。
世代的にネトウヨの影響を受けた後、彼らから離れた古谷氏の本は興味深い。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田中氏と浜屋氏による本はズンダブログでも紹介した。

ネットによる分断や過激化などは人々に大した影響を与えないことを示した本として有名なのでぜひよんでもらいたい。

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信頼できなくなってしまった専門家について考えるための一冊!『「専門家」とは何か?』を紹介する

 

 

 

 皆さんお久しぶりです、ズンダです。

 

 

 今回は『「専門家」とは誰か』という本を紹介します。

 

 はじめに

 

 昨今の情勢によくみられるように「専門家」と「一般大衆」という枠組みがあります。

 私たちは専門家というものをどれだけ信用することができるだろうか?という問題意識がでてきており、これを受ける形で編まれたのが本書です。

 

 この本には様々な専門家が「専門」の価値や問題、改善点などを語っており、あらゆる人に関係する種々の疑問にこたえています。

 

 では、本書で気になった章をまとめてみました。

 この他の章も大変おもしろいのですが、まとめやすいものをブログでは載せています。

 

 本書の目次は以下です。

 

専門家とは何か――村上陽一郎
隣の領域に口出しするということ: 専門家のためのリベラルアーツ――藤垣裕子
科学と「専門家」をめぐる諸概念の歴史――隠岐さや香
「ネガティブ・リテラシー」の時代へ――佐藤卓己
ジャーナリストと専門家は協働できるか――瀬川至朗
リスク時代における行政と専門家: 英国BSE問題から――神里達博
女子教育と男子教育からみる「教養」と「専門」――佐伯順子
社会と科学をつなぐ新しい「専門家」――小林傳司
運動としての専門知: 対話型専門知と2061年の子どもたちのために――鈴木哲也

 

 

 

 村上陽一郎 専門家とは何か

 

・専門の意味

→もともと和語ではない。漢語。その原意は「一つの経書に詳しい」こと。

経書とは?→四書五経などのこと。論語孟子、大學、中庸などの書類。

 

現代日本での使われ方は「専科」である。専門的なものを極めた状態にあること。

 村上によればドイツ語のFach。辞書をひくとDas ist nicht mein Fach(それは私の専門ではない。)がみつかる。

 

・大学の誕生。イタリアのボローニャ、パードヴァ、フランスのパリ、モンペリエ、イギリスのオクスフォードなどの「大学」は一三世紀以降あらわれる。

 

・大学の本体は「哲学部」であった。そこから社会に要請される知識をもった職能人を育てるために神学校、医学校、法学校の三種ができる。聖職者、医者、法曹家である。

 

・これらに進学するためには最初に哲学を学ばなければならなかった。

 

・リベラル・アーツ(=liberal arts college)とは哲学部に入学した学生が等しく修得を期待された自由七科にはじまる。artsは技芸や業という意味。「三科」=(論理学、文法、修辞学)と「四科」天文学幾何学、算術、音楽にわかれていた。

 

・つまり、artsの意味からわかるように学問所の細かなFach=専門という意味が薄い。

 

・中世の大学においては「哲学」こそが「学問」であり、「七科」はそれを追い求めるための素養として考えられていた。

 

アリストテレスのさすようにさすように哲学には、形而上学、自然学、論理学、政治学倫理学詩学代数学、ローマ法など様々なことが語られているため哲学研究のためには多くの分野を学習する必要があった。

 

・人間の価値「真善美」をどう考えればよいのかという礎として哲学は多くの手札を持つ必要があった。

 

こうした構造は近代になってから壊れ始める。ここではディドロによる「百科全書」があげられている。

 

・「百科全書」は当時の知識(鉄鋼の鍛出法や詩集の針の使い方など技術知や身体知などを記した。これは従来の哲学で扱っていたものと異なる。)加えて、哲学的知識がこれらの技術知などと一緒に並べられて平準なものとされた。哲学の権威が地に落ちた瞬間である。

 

・この全書はアルファベット順にかかれている。しかし神学による縛りがあった当時の社会において物事を並べる順番は「重」から「軽」というものであった。「Dieu」=「神」が「chien」=犬の後に記されることはなかった。これをキリスト教からの離脱とみなされる。

 

・斯くして、博物学、動物学、植物学、地質学、社会学などが哲学から切り離されて良ったのが一九世紀のヨーロッパである。専門にわかれた。

 

・ist の誕生である。物理学者とよばれるニュートンの時代、scientist もphysicistも存在していなかった。ニュートンの主著『自然哲学の数学的原理』は(principia mathematica philosophiae naturalis)であり、philosophiae=哲学の、というように哲学の書物であった。つまり、物理学の古典でもなんでもなかったのである。

 

↓以下の本は本章を更に理解するためにおすすめの本です。特に文系と理系との歴史について知りたい方は『文系と理系とはなぜ分かれたのか』(星海社新書)を読んでみてください。

 

 

 

 

藤垣裕子 

 
・専門家におけるリベラル・アーツの重要性を説く。専門家は他の専門領域を学ばなければならない。そして、自分の分野へかえるといった往復によって自らを相対化する力が手に入る。
・東大では二〇一五年度から学部で試行授業が開始されている。
 
・専門家になるとはどういうことか?それは「ジャーナル共同体」とよばれる当該分野の専門誌の編集・投稿・査読活動をおこなう共同体に入ることである。
 
・科学者による知識は専門誌にアクセプト(掲載許諾)されることで正しさが保証される(妥当性保証)。次に専門誌に印刷、公刊されて評価される(研究者の評価)。科学者の育成は専門誌にアクセプトされる論文を書く教育によって成立する。科学者の予算獲得と地位は専門誌共同体にアクセプトされた論文の本数と質とによって判断される。
 
・ジャーナル共同は科学的知識生産において品質保証、評価、後進の育成、予算獲得の役割を果たす。
 
こうしてどうなるか?
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「○○じゃ!」といった老人語はどこからきたのか?『ヴァーチャル日本語 役割後の謎』を紹介する

 

 

 お久しぶりです。

 ズンダです。

 

 今日は『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』の第一章を紹介します。

 

 役割語ってなに?

 

 まず、役割語とはなんなのでしょうか。

 

 附録から引用します。

 

 ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ

 

 マンガやアニメなどにでてくる老人や博士達を思い浮かべてください。

 

 鉄腕アトムお茶の水博士

 ポケットモンスターオーキド博士

 名探偵コナン阿笠博士

 

 これらの人物は老人語、博士語の代表格といえるでしょう。

 

 知っている方も大勢おられるとおもいます。

 

 彼らは語尾に「じゃ」「知らん、知らぬ」「知っておる、知っとる」などをつけてますよね。

 

 これはらの用法は基本的には西日本で使われたことばづかいです。

 

 ここには東VS西の対立があります。

 

 老人語や博士語はいつからでてきた?

 

 この老人語や博士語はいつぐらいから広まったのでしょうか。

 

 筆者がいうには戦前、さらには江戸時代からこれらの用法があったといいます。

 

 戦前だと日本SFの祖・海野十三手塚治虫の博士語の由来だといわれています。

 

 まだ少年雑誌である『少年クラブ』(大正三年~昭和三七年)や講談のネタを本にした『立川文庫』(明治四四年頃)などまで老人語などは遡れます。

 

 これからは近世後期において鶴屋南北らの歌舞伎作品『東海道四谷怪談』にみもられるそうです。

 

 上方風 武士、武士の妻女、老人、上方者

 東国風 江戸の庶民

 両方  本来武士だが庶民と関わりがある者

 

 というふうにわけられています。

 

 江戸時代の若者言葉と老人言葉が歌舞伎や浄瑠璃に反映された

 

 ここで筆者は小松寿夫氏の研究をひきます。

 

 小松によれば江戸語は三つの時期にわけられるようです。(『江戸時代の国語 江戸語』)

 

 

 第一次形成(寛永期:慶長(一五九六)~明暦(一六五七)

 第二次形成(明和期:一七六四~一七七一)

 第三次形成(化政期:文化(一八〇四)~文政(一八二九)   

 

 第一次形成では武士の言葉。江戸の町全体としては方言雑居の状態。

 第二次形成では町人層にも江戸共通語がうまれる

 第三次形成では下層の東国語的表現が非下層に浸透していく

 

 先ほどあげていた『東海道四谷怪談』の時期は第二次形成から第三次形成であり、

ここにあるのは階層的対立といわれています。

 

 つまり、若年層・壮年層の人物が江戸の共通語である東国的表現を身につけていたが、老年層は上方的表現を使っていたということです。

 

 これが老人が「じゃ」「しっておる」などと使っていた理由です。

 

 この時代において、その老人が若かった頃、第二次形成期においては上方のしゃべり方が普通だったのですが、それが第三次に向かうにつれて東国的表現に切り替わっていった。

 

 それを写し取った歌舞伎などでは老人が上方的表現をつかい、若者は東国的表現をつかった。

 

 要するに、丸本歌舞伎や人形浄瑠璃はその当時の社会で使用されていた言語の実態をうつしとっていたというわけです。

 

 そしてこの用法が『立川文庫』などに受け継がれ、明治や大正の人々に伝播していくのです。

 

             

『人間の条件』 で、ハンナ・アーレントは何をいっているのか?

 

 

精読 アレント 『人間の条件』(講談社 選書 メチエ)を三月初めに読み終えていた。

そのとき、Twitterでかいたものの感想をブログにのせる。

 

 

人間の条件とは?

 

マルクスを下敷きにし、そしてそれへの批判もしながら、古代ギリシャ・ローマにおける観照的生活、活動的生活と近代の違いを論じる。

 

人間の条件は、①労働(必要なものをつくる)、②仕事(人工的な世界をつくる)、③活動(政治的な活動)である。

 

 

近代以降、マルクスニーチェキリスト教批判をしながらもその延長線上にあることを示している。

 

アーレント、ゴリ押し感あるけど、おもしろい。正直、誇大妄想なのではないかと思ってしまう。

 

情報量がおおいわけでも、新しくかんじたわけでもない。ただ、哲学している感じかえられたのがおおきかった。まあ、政治哲学なんだけど。


今まで読んできた本にアーレントのエッセンスは組み込まれていて、意外性のあるものではない。

ただ、これを読むという経験があたえてくれる理解というのは独特だ。


アーレント自体は「行為」に価値があると考えていたみたいだけど、それをそこまで強調しないんだよね。そして、民主主義社会のために、ともいわない。


これのせいで、かなり訳が分からないまま読了した。彼女の執筆理由はなんなのかと。

 

人が個人での妄想を逞しくしてしまうのが近代社会


内面的なモノの拡大が宇宙への飛翔って、論理がむしろ飛翔してるんじゃないかとおもいがちだけど、このアナロジーって相当あたまがいいというか、昔よんだ『純粋理性批判入門』の冒頭にあった話って、ハンナ・アーレントの『人間の条件』からパクったものだったのだと数十年たって、はじめてしった。


ひたすら内省することが近代人の証なわけだけど、これが技術の発展にともなって更に深化しているのって当然なのかもしれないという。

 

アルキメデスの点やデカルト懐疑論からくる内省、ガリレオの望遠鏡、これらが信仰をこわした

 

みんな労働者になったので画一化、そして、活動は消えた


古代ギリシャ人の貴族や自由民は労働をしなかった。労働は奴隷がするものであり、彼らにとって労働とは唾棄されるべき存在であった。

 

ただしその自由民による言論活動が社会との共通世界を構築し、私たちの精神を外部とつなげることに成功していた。

 

しかし、キリスト教によって観照的生活が影響力を増していく。活動的生活は衰えていった。

 

だが、これも近代になり、今度は宗教が斥けられ、観照的生活も衰退していく。残ったのが労働賛美であった。

 

私的と公的な世界は国民経済が誕生することでその境界線が曖昧になり、労働も国家によるルールの中でおこなわれるようになる。

 

こうして、人々の活動は労働によって覆われる。

更にそれは古代ギリシャにあったはずの共通の世界の喪失を意味した。

 

こうして人々はお互いの世界を共有できなくなり、個別化していった。

その結果、他者を考える余地がなくなったのである。

 

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チャールズ ・テイラー  『ほんもの」という倫理』の感想

 

 

 バランスがとれた本という感想である。

 

 所謂、ありきたりな近代批判やアメリカにおけるミーイズムやナルシズム批判などによる現代文明の浅薄さを嘆く諸氏らに半分同意しながらも、現代との対話をいかに続けていくかをテイラーが1992年にラジオで語ったことを本にまとめたのが今般、出版された『「ほんもの」という倫理』である。

 

 さすがに頁数の少なさと口頭によるもののせいで中身に関してはやや納得しがたい点もあるが、テイラーがどういう立場にいる人なのかを理解するには十分に使える本でああった。

 

以下、個人的に気になった箇所。

ただし、下記の点を意識しながら読むと内容が把握しやすいとはおもう。

ブログを読んで、興味をもった方はぜひ参考にしてみてください。

 

 

・「ほんもの」とはなにか

自己中心とは違う。「ほんもの」はルソー辺りから二つに分かれた。

「自己決定的自由」と「内なる自分の声(他者を顧みないわけではない。道徳的源泉とつながっている一種の人間に備わった道徳)」とに。

他者との共存をさぐるという意味での「ほんもの」ということ。

 

このうちなる声についてフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』(講談社学術文庫)には次のようにある。

 

道徳的命法は、ルソーにしてもカントにしても、内なる声として現れる。「良心、良心!神聖な本能、滅びることなき天の声」とルソーは言う(『エミール』中、一八九頁)。カントも「天の声」と言い、「その理性の声は」「極悪人さえ震え上がらせる(『実践理性批判』一七三、二三九頁)と述べる。

 

ところが、『孟子』や中国の伝統のどこを探しても、そうした表現は全く見受けられない。ここに、カントかルソーかという哲学的な二者択一の手前に立って、西洋の道徳観念を形づくっている共通の文化的枠組みにまで遡るチャンスが与えられる(というのも、この条件設定に気づくことができるのは、ただ外部からのみであり、差異によってのみだからである)。

 

というように西洋と中国との倫理的な前提の差異を指摘している。中国には「内なる声」がないというのである。ただ、中国の「内なる声」って「天」のことなんじゃないの?とおもうが、違うのだろうか。

 

正直、うまく定義されてないんじゃないかとおもうが。本書をよんでいると「ほんもの」というタイトルの意味がなんとなくつたわってくる。

 

 

・テクノロジーについて


テイラーはこれを支配するとか支配されるとかいう
コントロールの問題にすべきではないといっている。

 

コントロールではケアや純粋な思考の陶冶にはつながらないから。
当然、ハイデガーの『技術とはなにか』が元ネタになっている。
とにかく現代社会を語る上で、ハイデガーが引用されることは
非常に多い。

 

 

私ズンダがここ数ヶ月に読んだ本でもAIやSNSの問題点を
挙げた本ではハイデガーは頻出している。


たとえば、『超デジタル世界』(岩波新書)、『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー)、『自己啓発の罠』青土社などである。

 

 

 

スマホ時代の哲学』と『自己啓発の罠』の二つとも若い世代によってかかれたものだが、テイラーと同様、技術を否定していない。どうやって技術と共に生きていけば良いのかという点において共通している。

 

この辺が昔はやった?「反近代」とかよくあるテクノロジー批判とは異なってきていると思う。やはり今の30~40代あたりはその前の世代が散々指摘していた「技術にのっとられるな!」という主張とは違う。

逆にテイラーが90年代初頭に技術を完全に否定しなかったことに驚いた。

 

ただ、その力点はやや異なるようにおもえる。
テイラーが独特なのは「技術を人間が支配する」といった考えを否定しているところなのだ。
その理由が「コントロールではケアや純粋な思考の陶冶にはつながらないから。」というのだがそれは理由になるのだろうか?

 

ここがちょっと難しい。おそらく直線上の論理ではなく別の論理をもってきたいということなのだろうが、モヤモヤしている。

 

・度重なるハイデガーの引用について


この議論は大変難しい。そもそも引用されるハイデガー
文章を読んでみてもどれぐらいの人が理解できるのだろうか。


これは東日本大震災後の原子力発電に関するその是非を問うといった
論争のときもそうだったし、現代人とSNSとの付き合い方に警鐘を鳴らす本のときもそうだ。

 

また、その効力はどの程度あるのだろうか。
ちょっと疑わしく思っている。

 

・近代や現代の問題は嘆くのではなく、討議せよ!と説く

 

また近代に関して、テイラーは近代を否定せよとはいってない。
ある時代、1960年代に近代民主主義や個人主義を否定する知識人が続出した。
アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』、ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』、クリストファー・ラッシュ『ナルシシズムの時代』と『ミニマルセルフ』
、ジル・リポヴェツキー『虚無の時代』などである。

 


日本でも筑摩書房から『反近代』という本が出されているが、
こういう大衆や技術発展を馬鹿にした論調というのが世の中にはあったのである。

 

技術批判は現代だとポストモダニストマルクス主義者が行っている。
斎藤幸平『人新世の時代』が売れていたが、以前、Amazonのレビューで
マルクスの焼き直しではないかと話題になった。

https://note.com/lessthanuseful/n/n974e25689201

 

だが、テイラーは近代を賛美することも侮蔑することもしないという。
彼は「闘争の場」という用語をもちだし、議論することの必要性をとく。

 

個人主義とエゴイズム、ミーイズムの違い。公的な秩序の崩壊。藝術家の話

 

近代的個人主義に関しても、個人主義とエゴイズム(アノミー的な)ものとを
区分けしており、後者を否定しても前者は肯定的にみている。

 

テイラーは、近代人は「公的に定められた秩序がなくなってしまった存在」(このあたり、ハンナ・アーレント『人間の条件』とかぶる)といい、
その秩序なき時代に誌をつくるとなれば内面的な結合の感覚を表にだすしかなくなったと指摘している。

 

 

ただし、リルケワーズワースなどは近代詩-個人の主観により
あらゆるものを把握し、自分の個性の表出として利用するものとして評価されがちだが、実際は個人の感性から出発し、大きな自然、宗教的なものを捉えなおしたものだという。前近代との相違はその様式にあるだけで、彼らを個人主義的な藝術主義、つまり表現主義とみなすべきではないという。
リルケ、エリオット、パウンド、ジョイス、トーマス・マンなどがあげられる。

 

相対主義は批難する

 

テイラーはマルクス主義者でもないし資本主義万歳でもない。
その辺りバランスがとれている。折衷主義といわれるかもしれないが、
彼は相対主義を否定していることに注意。
相対主義は自己本位になるから支持できない。

 

また物事には重大なものと重大ではないものとがある。

 

・民主主義は大事。でも、ちゃんとしてないと官僚主義や専門人のいいなりになるよ!


民主主義こそが道具的理性(フランクフルト学派の啓蒙批判の用語。科学的な技術の蔓延を嘆くときに使いがち)のヘゲモニーにうちかつことができる。
しかし、トクヴィル(テイラーはトクヴィル主義)がいうように
民衆は官僚国家と市場との間に板挟みにされ「巨大な後見的権力」
飲み込まれ、いうがままの生活を送るようになりがちなのである。

 

 

 

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【東大生】が《教育格差》について学んだ結果、次のようになった!

今回紹介する本は『東大生、教育格差を学ぶ』(光文社新書)です。

 

 

東大生、教育格差を学ぶの感想文

 

東大生はおおむね自分たちが教育環境において恵まれている、といわれていることを知っているようである。彼らの中には「自分たち

の努力も認めて欲しい」という意見があり、これはもっともだとおもった。

 

いくら環境がいいからといって、彼らが何もしてこなかったわけではないし、その勉強への熱意や試験に受かるための目標設定、工夫などは正しく評価されるべきであることはいうまでもない。

 

 

東大生での教育論、やはり問題は自分たち東大生がマイノリティなのにもかかわらず、世の中を支配してしまうこと。
さらにはいかにしてSESが低い人々や学力のない人たち、反学校的な人たちを想像できるのか?ということを語っており、ほんとうにそうだよねって感じ。

 

学校が正しい、という価値観をもたない人々
『ハマータウンの野郎ども ─学校への反抗・労働への順応 』があげられていて、知識階級への反発、学問への軽蔑など、おもしろいな、と。

 

 

また、岸政彦がいう「他者の合理性」やライト・ミルズの『社会学的想像力』は松岡氏のデータによってやりやすくなる


相手のことは知識がないと想像できない。

 

「努力すれば何でもできる。努力したから東大に受かった!」はこの本のなかで東大生が何回もあげている。

自分の能力のみでここまできたんだという気持ちについて、

東大生は

「我々の努力自体を否定されるのもおかしいが、

一方で、環境で人の人生が決まりやすいのも認めなければならない」

 

といっている。

 

この慢心を改め、人の人生に対して寛容になることの大切さがかかれている。


松岡氏や教育学者が重視しているのは「教育格差」「学歴格差」のうち前者である。このうち「教育格差」という生まれた瞬間から親の経済的事情により始まる格差を問題視している。

 

一方で、そもそも勉強が正しいのか?という東大生側の疑義も重要。

大学までいくことが正しいわけではない。


ちなみに教育環境が高いことをSESが高いといい、低いことをSESが低いという。Socio-economic Statusの略。


しかし、想像力は結局は、非対称的なものになるよね。

労働者はどうやって環境に恵まれた側のこと知ることができるのだろう。

どうやったら、理解ができるのであろうか。

 

その機会をどこで得るか。これが難しい。

学校外でということになれば、やはり、テレビやTwitteryoutubeなどになるだろうか。

 

東大生は労働者側を労ることが出来ても、労働者側は知識を獲得することが難しいので想像力をつくることができないのだから。

メディアリテラシーにしても、東大生側は数多くの知識や学問を身につけることが得意だが、それこそ中卒や高卒などで仕事をしながらそういった問題に関心をもち、情報を処理していくことはむずかしい。

 

たとえば、この本一冊を読むのに、どれだけの時間がかかるだろうか?というのはその人の読書力や知的さによるだろう。

 

ときたま、底辺ほど同じように苦しんでいる人々に冷たい、などといわれているが、もしかすると、知識を得られないためにそうなっているのではないかと思えた。

この非対称性は常に人々のモノの見方にかかわってくるだろう。


だが、社会を作る側にまわるのは東大生なのでその非対称性が悪いともいいがたい。

知的な仕事に従事している人間と肉体労働が多い人々との埋めがたい差である。

 

いろいろなことを考えさせられる実に面白い本だった。おすすめ。

 

↓本記事に関係するものとして以下の文章もよんでもらいたい。

 

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