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【読書感想】応用性のある哲学 『信頼と裏切りの哲学』を紹介する!!

 

 

どんな内容の本か?

 

紹介するといっていますが、議論の中身を仔細に伝えることはまずできない本です。

この本の結論だけをいってしまうと実は非常に穏当なものでしかありません。

 

哲学者達の議論が諸々参考にされながら、その説を剔抉し反論や異論を加えつつ、著者がまとめた信頼の要素「認知的・感情的・制度的」が多層的に重なりあい、不信や裏切りなどがどのように誕生するかを検討していくといったものです。

 

そのため大事なことは「認知的とはなにか?」「感情的とはなにか?」「制度的とはなにか?」を確認しながら読むことです。

 

これらを確認した後に不信、裏切りの項について思索が展開されますが、

それは至って当然の結論に至ります。

 

本書を読み終えたとき、私ズンダは「あれ、これでおわりか」とおもってしまいました。

一方で、読書中、この考えは「使える」とも思いました。

 

当然、信頼や裏切りというのは我々の日常において頻繁に繰り返されていることです。

誰かに対しての信頼なくして恋愛も家庭生活も学校も会社も成り立つことはありません。

 

人と付き合わないで生きていく人は極一部でしょう。

 

こうして私がブログをかいたりXをしていたりしても、常に誰かはみています。

私も誰かが自分の書き込みをみているかもしれない可能性をもちながら、ブログ、X、NOTEに文字を連ねているわけです。

 

ですから、この本の内容は実に哲学的考察でありながらも実践的です。

 

それゆえ「当たり前」に感じられてしまい物足りなさを覚えてしまうという欠点があります。

 

ただ私個人のここ一、二年の興味に本書を照らし合わせてみると、時宜にあった拡張ができることに気づきます。

 

私ズンダはどのようにこの本を受け止めたか―スプラトゥーンというゲームー

 

私ズンダにとっての関心事は

 

「テレビゲームにおけるオンライン上の信頼はいかにして成り立つのか?」

 

ということでした。

 

私ズンダは「スプラトゥーン」というゲームをずっとやっていますが、

このゲームは四人チームで相手四人と戦います。

 

オンライン上の知らない三人が味方にきて、私と一緒に相手チームと戦います。

その結果、勝ったり負けたりするわけですが、

「どうして味方はあのときにこんな行動をとったのだろう?」と思うことが多い。

 

ここには味方への「信頼」があり「期待」があると考えられます。

お店へいって商品を店員さんにわたし、お金をあげることで商品がこちらのものになる。

 

これは客と店員との信頼によるものです。

 

この信頼は万引きすれば一瞬で崩れ、「裏切り」になります。

 

それと同じで「スプラトゥーン」というゲームにも「信頼」と「裏切り」が不即不離で存在しているのです。

 

この辺りを考察するときに『信頼と裏切りの哲学』は非常に役立ちそうだなと思っています。

 

読んでいてグァラ『制度論』とヒースの『ルールに従う』を思い出したのでこちらもおすすめです。

 

特にヒースの1~3章の道具的合理性などは近いが、『信頼と裏切りの哲学』はそのなかでも焦点をかなり絞っている本であり、ヒースのは頁数も分量もでてくる思想家や実験の紹介ふくめて射程が長い。

 

 

 

他メディアで書いた感想文

 

以下はXや読書メーターにかいた感想です。

 

 

 

・認知的信頼

・感情的信頼

・制度的信頼

 

 

これらが多層的に関わり合うと考える。
 どの信頼にも一概には言い切れない部分があり、
それを他の部分で補う。この三点を引き継いで、不信、裏切りなどがどうして起こるかを語る。 
読むべき部分を指摘できない本だった。


 オンラインゲームではなぜお互いが協力しあうのか?
ということを考えるときに本書を利用してみると
自分には有益な書物なのではないかとおもえた。 
それが理由で手に取ったわけだしなあ。
あくまでも内的コミットメントに拘ってる感じがあったけど。もう一回よんでみるか・・・


難解ではなくしっかり説明された本なので読むこと自体は苦ではない。
問題はこれを読んでいる自分がここから何を引き出せるか、
何を思えるかということである。その論理の積み重ねも結論も分かる。
というか、当たり前ではないかこれは?といった内容のあまり、
読後感がない。読む前と読んだ後での自分の変化を感じない。
本によって思想が極度に変わるなどということは
青年期でもないかぎりは滅多にないことであるが、


この本はホッブズ、ヒューム、カントを軸にしながら
信頼について書いていくために思想家の紹介のようになっているきらいがある。


そして、ここで挙げられている彼らの思想も、
哲学系の本を読んでいる人間であれば知っていて当然のものである。
それらから信頼を考えることはいいが、
こういう思想家の説を追っていくことで分かることに感興を覚えることが
私にはできなかった。


ただし、不佞にとって益があると思ったのは
ビデオゲームにおけるオンライン上の味方に対して私たちは何を求め、
期待し、信頼し、そして不信や裏切りを抱くのかということをよく考えていたからである。 
その観点からすれば、本書はそれに十分に応えてくれたと思える。使える本になる。

【100分de名著】朱 喜哲 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を紹介する!【感想文】

 

 

※追記

著者の朱氏に反応していただいた。

プラグマティズム分析哲学的なローティの思想への批判などは

二月刊行予定の

『人類の会話のための哲学: ローティと21世紀のプラグマティズム』で行っているらしい。

実に楽しみである。

 

 

 

 

 

ローティについての入門書である。


《西洋哲学に一貫してみられる「真理」の探求への批判》
《終極の語彙》

《リベラル・アイロニスト》

《再記述》
《言葉による非‐人間化》

 

などが扱われている。


ローティを利用して何かを述べたい人にとっては良い纏めになっている。


たとえば人と喧嘩になったり論争になったりしたときに


「それは君の《終極の語彙》でしかないよね」

といえば
相手のことを論破した気になれるだろうし、


「《言葉は人を非‐人間化》するのでエビデンスはいらない」


などといった使い方もできるだろう。

 

個人的にこういう哲学の使い方はどうかとおもうが、
しかし、哲学を現代的に利用するとなれば論法の一つとして
各哲学者の思想を集めて、自分の手駒として使うのも一つの摂取の仕方ではある。


権威主義的にはなるが、
一般層が時代に名を残した人の知恵として現代に活かすやり方としては
いいかもしれない。 


ただ、この本には言語哲学相対主義の話がのってないので、
読んだ人はローティを相対主義者」とおもってしまうのではないか。
もちろんそういう見方されているし、ありだとはおもうが、
ローティへの批判も書いてあった方がよかった。

 

「公共的な社会正義と私的な利害関心」では
ハンナ・アーレント『人間の条件』を思い出した。
ローティが他の思想家などの影響をどのぐらい受けていたのかも
知りたいところではあるが、入門書である以上、
これは仕方がない。ないものねだりである。

 

東浩紀『訂正する力』もどうぞ。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

本書は一時間もあれは読過できるのでおすすめである。

値段も600円ぐらいで買える。

 

以下に並べたのはローティ自身の本とローティについての研究書、またアーレントの「公私」がわかる『人間の条件』である。

またローティを読むに辺り必要な哲学の歴史をまとめた本を紹介している。

どれも読みやすくわかりやすいので、この100分de名著を読んだ後は

ぜひ読んで欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
もし社会の連帯についてもっと広く、または具体的にどうすればいいかを
詰めたことを知りたい方は以下の本をおすすめする。非常に面白い。
 

 

私たちはどのようにして学習しているのか?福島真人『学習の生態学』(筑摩書房)を紹介する!

書影

 

はじめにー言語化の変遷ー

 

ここでは学習の生態学で私ズンダにとって必要かつ面白かった箇所を
まとめておきたい。

 

NOTEでも書いているように私は言語化という言葉が
どこからきたのかをかいている。

note.com

 

NDLで検索すれば直ぐにでてくるが、日本に於ける「言語化」の
最初の使用例は大正時代における「新教育運動」の人々である。

ja.wikipedia.org

 

しかし、現在、Twitterで使用されている「言語化」には
彼らのような思想は全くない。そもそも「新教育運動からきている」という
認識自体をもっている人は、私以外、誰もいないだろう。

 

今の「言語化」という言葉に不可思議を感じ、それを調べて書いた人物が一応の所、私以外にいないからである。


上記の文は①医療系②広告系からきたものではないか?と示した文だ。

私自身も「言語化」という言葉を使用したことはあるが、
Twitteryoutubeなどでの使われ方は単なる「説明した/解説した」
ですむような用例が多いと感じるようになっていた。

 

それをわざわざ「言語化」と呼ぶことに何の意味があるのか不可解だったのである。
すると考えられるのは「誰かがどこからか拾ってきて、ネット上で広まった単語」なのではないか。


ここでは「言語化とは何か?」について語るわけにはいかないので
リンクから飛んで読んでもらいたい。

 

言葉で表現できないとは?暗黙知の問題

 

さて、今回の『学習の生態学で私が気になったところは


マイケル・ポランニーが述べた暗黙知についてである。

 

この「暗黙知」の意味は「ことばにできない能力」を指す。
言語化」はあらゆることを言葉にして職人や専門家がもつ能力を説明する意味で利用されているが、
暗黙知はこれとは逆で「表現できないもの」をいう。

 

この「暗黙知」自体は有名な概念であり、聞いたことのある人も多くいるだろうが
私が『学習の生態学』を読んで知ったのは暗黙知」を意識した後世の学者が
どういう研究をせざるを得ないはめになったか、ということだ。

 

つまり、「言語化」できない諸処のことは学問的に解明も記述もできない。
だとすれば「どこまでなら書くことが許されるか?」を前提にした人々が現れたのである。

 

 

 

 

・ポラニーは自転車にのったり、X線写真の曖昧な図から肺癌の影を見いだしたりを
専門家の技能や熟練について上手く語ることができないという。

 

・無意識の技能に注目するとそれがかえってできなくなる。
楽譜をみながらピアノを弾くピアニストに鍵盤をみてもらいながらひいてもらったとすると、意識してしまい、逆に弾けなくなる。

 

・何かをすることができる能力を詳しく説明することはできない。
これを「詳記不能」という。

 

ここまでポラニーの「暗黙知」を知っていれば常識的な内容におもわれる。

 

しかし、ここからは違う。

 


・「膨大な慣習や、認識への個人的情熱に支えられているという事態を明らかにする事であった。当然この主張は、非明示的な(あるいは語り得ない)慣習、技能、熟練およびそれらの教育、伝達といったものの認識論的な重要性に我々の関心を向ける事になる。
だが、問題は、ポラニーの主張が内在する、ある種の方法序論上の隘路である。我々の認識活動が膨大な暗黙知によって支えられているというのはいいとしても、それが詳記不能という事になると、一体それらはいかにして研究されうるのであろうか。」

 

と著者である福島は記しているように、ポラニーが暗黙知を提唱したために「人がはなしたことの正当性」が揺るがされるようになってしまったのである。

 

ラニーは次のようにいう。

 

・「分析は従属的知識を焦点にもたらし、それを金言ないし人相の特徴として定式化するかもしれないが、そうした詳記は一般に事態を尽くしていない。確かにエキスパートの診断か、分類家、綿の仕分け家は、その手掛かりを示し、金言を定式化する事はできようが、彼は自分の語るものよりもずっと多くを知っており、しかもそれらを実際的に―用具的な個別的要因として―知っているのみであって、明示的に、対象として
知っているのではない」

 

文中にある「金言」はmottoの訳語だが、この専門家から発せられる「金言」は彼の専門能力の実態を完璧に明らかにしたものではない。多くの何かがこぼれ落ちた「言語化」=「金言」なのである。

 

ここで大事なのはポラニーが民族誌的調査において言葉で彼らの行動や様式をききだしたとしても
それは彼らの言動の意味を理解することには限界があると指摘していることである。

 

民族誌とは

 

「諸民族の技能や習慣などの文化を具体的に観察して記述したもの。 ヨーロッパ人の世界進出が進むなかで異文化に関する知見が蓄えられて成立した。 比較のための材料を文化人類学民族学に提供。
」(コトバンク

 

のことだが、ポラニーの暗黙知を踏まえると、今までの調査方式で、本当に彼らのいわんとしていることを明解にできたかといわれれば否ということになる。

 

こうした記述への疑義を受け取った知識人達は「楽観論派」と「悲観論派」にわかれる。


著名なのは知識工学のファイゲンバウムと哲学者のドレイファスである。

 

楽観派代表ーファイゲンバウムの知識工学(積極的言語化)ー

 

・ファイゲンバウムは多くの専門家が蓄えた専門知識をデータベース化した。その判断を機械に摸倣させようとした。
こうしたシステムを「エキスパート・システム」といい、知識獲得、構成の方法を知識工学という。
スタンフォード大学のファイゲンバウムはDENDRALというシステムをつくる。
質量分析、核磁気共鳴、その他の化学分析データを入力すると、能率良く道の有機化合物の分子構造を同定してくれる
ものであり、有機化学者の能力を超えた成功を収めたというので注目される。

 

・フェイゲンバウムは専門的知識には二つあるという。
「教科書にのっているような教科書的知識」、もう一つは「専門家が実務経験によって培ってきた
経験的知識」である。

 

・知識工学者はその知識を機械に加えていってデータベース化すればいいと考えた

 

・そのために知識工学者は専門家に「インタビュー」しなければならない。知識を抽出するためだ。
ここで「暗黙知の問題」がうまれる。この専門家が述べていることは彼の能力の実態をすべて明らかにしたものなのか?
という疑義である。

 

 

・ファイゲンバウムは次のようにいう。「非情に穏健的なこたえであり、教科書的であり、実際の方法ではない」と。

 

・これを公的表彰(ある種の表象モデル)という。
表象モデルとは以下のようなものだ。

 

・我々は自分の行動を説明する際、建前のようなことをいってしまう。
ジャワの農村では、「儀礼をやるときは、自分の家の周辺の人々を均等に招く」という
説明を農民からきくが、実際は招待範囲は均等になってない。つまり、現実の行動ではない。
「一般的にそうなんだ」ということであり、その人本人はそうしてないのである。
ちなみに実際的レベルで人々の行動を規定しているモデルのことは「操作モデル」という。

 

・そのインタビューの欠点をわかっていたファイゲンバウムが考えたやりかたは
「一般的質問を避けて、専門家に特定のモデルケースになるような具体例をとりあげてもらい、実際にどういう
判断を行っているか、一つ一つ話してもらう、というやりかたであった。
すると「金言」とは異なる内容になった。ここで大事なのは専門家の手続きを観察することだという。

専門家が「このデータを使う」といっていても、それを使っていなかったり、別の段階で使うことがあったという。
要するに専門家は「自分が何をどうしているのかをわかっていないで喋っている」ということになる。

 

そして彼らは専門家のそうした思考形式もモデル化していった。

しかし、ここで厄介なことがおこった。知識工学者がまとめ、機械へ入力する改善されたプログラムをみた


専門家は自分の考えを変えてしまったというのである。


「これがあなたのこの問題に対する思考です」と差し出された人は

「それでは物足りない。別の考えがあるのではないか?」


と新たに問題を感じ、それに対しての答えをかえてしまう。こういうのを

「解釈学的循環」という。

 

示されたものを受け取ると、そこで解釈の余地がうまれてしまい、最初の判断とは異なる解釈をしてしまう。


私たちが十歳の頃に読んだ本を、三十歳のときに読んだら解釈は変わるだろう。
それと同じで明示されてしまうことで受取手は新たな解釈をしてしまうのである。

 

これは現在のAIの問題ではどうなっているのかしりたいところである。

 

悲観論代表ードレイファスの五段階モデル(消極的言語化)ー

 

悲観論としてはドレイファスが有名である。

 

・彼は熟練技術獲得の五段階モデルを提唱した。
この考えはなじみ深い人が多い。入門から専門段階になるにつれて、私たちは思考を介在させないで自動的に物事を処理できるようになるといった考えである。

そして専門家の「直感」や「勘」といったものは
言語化、機械に入力はできずに終わる。

 

ドレイファスは次のように言う。

 

エキスパートはビギナーの段階に後退して、覚えてはいるが自分ではもう使わないような規則を口に出すことになる。
そうして得た知識をプログラム化すれば、コンピューターならではの速度と正確さ、それに膨大な量のデータを記憶し
検索する能力のおかげで、プログラム化されたのと同じ規則を使う人間のビギナーを上回ることができる。
しかし、規則と事実をいくら寄せ集めても、何千、何万の状況について経験を積んだエキスパートの知識を再現する事はできないのである。

 

 

これはポラニーのいった「金言」や「表象モデル」と同じである。形式的で教科書的な凡庸なことしか
専門家はいえなくなっている。専門家自体が自分の能力を言語化できないわけだ。

 

むろん、知識工学者もそんなことはインタビューを繰り返していく内にわかっており、
それ故、彼らも「どこまでなら言語化できるのか?」を探っていったわけで、そんなに迂闊でもバカなわけでもない。

 

ここまできたところで、どのように「暗黙知」を扱うかで記述の仕方がうまれる。
ここからが私ズンダにとって面白い箇所だった。

 

暗黙知が前提の学問ーブルデュー

 

 

・ライル流の論理行動主義的な伝統に立脚して、そうした認知的な内部プロセスについての言明を避け、それを行動主義的(あるいは生態学的、社会学的)に還元していくか、それとも認知主義的な前提を維持しつつ、かつドレイファスのいうような、機械的な推論(規則主義的)と人間の認知過程の鋭角的な差異を意識しつつ、その認知過程について近似的なモデル、ないしはシミュレーションを行うか、どの方向を選ぶかという点である。

 

行動主義的な分析をすると「規範、技能、知識」は社会的な性格をもつとされ、それが順次「訓練」の過程によって「内在化」されるという過程が想定されることとなる。パーソンズの社会的規範の内面化やブルデューの「ベルベル人の家」という論攷などがそれである。


・この「ベルベル人の家」で語られたことは子供達は親や環境による躾によって自分たちを成長させることができるが、
自分たちでそれが何なのかを「言語化」できない。自分の行動の説明を自分自身で完璧に説明しつくすことができない状態がかたられており、これがブルデューの概念で有名な「ハビトゥス」や「文化資本」の書き方につながっているという。


要するに内的に自己の専門性や行動原理を表記することが不可能である以上、外部のせいにするしかなくなってしまったというわけである。

 

これを知ったとき、ちょっと驚いた。
というのもブルデューは一応、実証的にやっているが、暗黙知があり、それゆえ、自分の行動を記述できない


だから、「人の行動は環境に基づくものである」という推論だとすれば、この「暗黙知」という概念は別物に飛び移っているだけではないか?とおもってしまった。

 

論理が飛躍しているようにおもえるからだ。

というのも暗黙知」が何なのかわからないが、その「暗黙知」を前提にいれてしまう。


そして、その前提をもとに「文化資本をかんがえつく」というのはいくらなんでも無理がないか?

 

この辺り、ブルデューの研究者にでもうかがってみたいところだ。しかし福島氏の書き方をみているとそのように
感じてしまう。

そして次のようにかかれている。

 

基本能力+歴史的知識体系の総体がブルデューのいうハビトゥスだが、この基本的な能力について、彼は「認知的」といった言葉を使用しつつも、その内部過程については決してモデル化しない。
それを表現する際に、彼がライルから借用した「傾向性」(disposition)という用語を多用するところからも、ブルデューハビトゥス概念には、常に行動主義的な含意があり、いくら「認知」を語ったところで、
それは本質的に認知主義とはあいいいれないものである。

 

 

というように行動主義的な記述はこうしてみると「曖昧なことなので曖昧にかけてしまう」という欠点をもっているようにおもえる。そこに論理の杜撰さが亀裂となってあらわれてもおかしくない。

 

一方で「暗黙知」を前提とすると、行動主義にならざるを得ず、知識工学系は不利である。

 

終わりにー言葉に出来なくても、モデルがなければ行動主義は意味をもたないー

 

ここで福山はいうのは民族誌などをつくるためにインタビューをしたとき


「ただ公表するというのではなく、我々が追求する暗黙知との構造との関係で、どのように位置づけられるかという、
その認識論上の座標を明確にする事なのである」という。

 

環境派のいうとおりすれば、記述主義の山だらけ、現象学的な瑣末主義に頽落していくだけであり、
それを防ぐために認知科学的なモデル思考が必要となる、と福山は述べる。


私が以前から紹介している
アンダース エリクソン ロバート プール 『超一流になるのは才能か努力か? 』のような本はこの「暗黙知」で等閑視されていたものをいかにして言葉にするかということをしてきた本なのかもしれないと


『学習の生態学』をよんで改めて思ったのであった。

 

 

ちなみにこの本は医療現場や原子力発電などの失敗すれば直ちに人命にかかわる現場においてどのように学習をおこなっていくのか?について書いてある本である。

 

今回私がまとめた部分は自分の興味関心のあるところだけだが、他ももちろん面白いので読んでみるとよい。

 

なお私ズンダ、貧困にて、本や飲み物などをカンパしてくださると助かります。

www.amazon.jp

 

【要約】難しい勉強とはどのようなものか?千葉雅也『勉強の哲学』を紹介する

 

勉強の哲学 書影

 はじめに

 

 みなさん、こんにちは。

 ズンダです。

 

 今日は哲学者、千葉雅也氏の『勉強の哲学』という本を紹介したいと思います。

 

 勉強を哲学するというとややこしくきこえますが、この本は非常にわかりやすく勉強について説明してくれています。

 

 勉強をすることで私たちはどのように感じ、どのように変化していくのかが語られています。

 

 更に、勉強してしまっている人が陥りがちなワナにも触れられています。

 

 ではみていきましょう。

 

 

 

 

 勉強とは自己破壊である、とは???

 勉強のマイナス面

 

 

いま、立ち止まって考えることが難しい。

溢れる情報刺激のなかで、何かに焦点を絞ってじっくり考えることが難しい。

本書では、そうした情報過剰の状況を勉強のユートピアとして積極的に活用し、自分なりに思考を深めるにはどうしたらいいかを考えたいのです。

 

 

 SNSをみていればわかるように毎日のように何らかの事件やバズがあり、インフルエンサーを筆頭に多くの人たちがそれに過剰なほど反応して、一つか二つの話題に群がり、それぞれの考えを呟く。

 

 そんな状態が続いています。

 

 ここで千葉氏はそれを利用しつつも「有限化」してみてはどうか?といいます。

 

 ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。無限に広がる情報の海で、次々に押し寄せる波に、ノリに、ただ流されていくのではなく。「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。

 

 それが大事ではないかというのです。

 

 また勉強に関しても全く勉強してない人などいないといいます。

 誰だって毎日、何らかの勉強はしているものです。

 

 それは座学じゃないだけで、仕事をしていれば新しい何かに出会い、反省し、学ぶことは多いでしょう。

 

 これ自体がすでに「勉強」なわけです。

 

 ただし、その「勉強」は立ち止まって「深く」勉強することとは異なります。

 

 そしてこの「深い勉強」は「ノリが悪くなる」ことだといいます。

 

 これから説明するのは、今までに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って「新しいノリ」に変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法です。

 

 勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」がいったんできなくなります。「昔はバカやったよなー」というふうに、昔のノリが失われる。全体的に、人生の勢いがしぼんでいまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けているのです。

 

 

単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。これが、第一段階。

いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。これが、第二段階。

しかしその先で、来たるべきバカに変身する。第三段階。

 

 この第一段階、私ズンダはTwitterをみているとよくみかけます。

 というか殆どがこの第一段階です。Twitterにおけるフォロー/フォロワーの関係は常に「ワイワイやれる」ばかりでしょう。

 

 内輪ネタが多い。そのネタが舞い込まれる度に反応し、FF内でRT、共有しあいみんなで騒ぐ。

 

 端から見ると「バカちゃうか」とおもってしまうものばかりです。

 

 しかし、なんでこうなってしまうのでしょう?

 ここで重要なのは「勉強は自己破壊」です。

 

 勉強は「自己破壊」につながる

 

 「勉強は自己破壊」とはどういうことか。

 

 私たちは勉強と聞くといいものだとおもいますよね。

 

 学校における勉強、点数があがり成績がよくなり、親や先生からほめられ、クラスメイトからは羨望のまなざしでみられる。

 

 進路も自由に選択できるようになるし、大企業に勤めることができる。

 

 ハッピーじゃないか!と思う。

 

 しかし、千葉氏は「むしろ勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブに捉えたほうが、むしろ生産的だと思うのです。」

 

 

何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

それは、「自由になる」ためです。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になるのです。

 

 

 

私たちは、基本的に、周りのノリに合わせて生きている。会社が学校のノリ、地元の友人の乗り、家族のノリ・・・・・・そうした「環境」のノリにチューニングし、

そこで「浮かせない」ようにしている。日本社会は「同調圧力」が強いとよく言われますね。

 

「みんなと同じようにしなさい」―それは、つまり「ノリが悪いこと」の排除です。

「出る杭は打たれる」のです。

 

しかし、勉強は深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではありません。深い勉強なんです。それを本書では、「ラディカル・ラーニング」と呼ぶことにしたい。

 

 

 要するに、私たちはその環境における「共有」している「共感」のような世界のノリで楽しんでいる時間がある。あるいはそういう時期がある。

 

 ところが「勉強」をしだすと、その「ノリ」はなくなってしまうわけです。

 新しい技術を学ぶ、知識を得る。すると、世界の見え方は変わります。

 

 たとえば、私ズンダも昔、簿記だの宅建だのの勉強をしたことがある。

 

 すると、貸方借り方によるお金の把握が可能になったり、民法や建築物の立て方、素材、市への申請などを学ぶことで現実の見方がいっきにかわる。

 

 別にこういった実用的なものだけでなく、哲学書などでもいいですが、

 何かを学んでいくと「今までの自分と異なる存在」に自分がなったのを感じるわけです。

 

 すると、今までの「ノリ」ではもはや「笑えなくなる」「楽しめなくなる」のですね。

 

 これが「自己破壊」です。

 そして付き合いのあった人たちからは

 

「なんか、変わっちゃったね。《ノリが悪いね》」

 

となってしまう。

 

これを「コード」と千葉氏はいいます。

 

 その環境における「目的的・共同的な方向づけ」のことです。

 

 AといったらBとかえす。

 BといったらCとかえす。

 

 こんなその狭い界隈にしかないようなやりとりがあるでしょう。

 そういったコードが「勉強」によって破壊されていく。

 

 友人関係がかわってしまうかもしれない。

 

 よって、千葉氏もノリを壊したくない人には本書は必要ないというわけです。

 

 人生の生き方はそれぞれです。

 別にノリによって生きていきたければそれでいい。

 

 なんなら、そのほうが上手い生き方といえるかもしれない。

 

 第一段階、ノリによって生きる状態から第二段階へいき、第三段階へいこうとする人にとって本書は価値があるわけです。

 

 言語によって人間はとらわれている

 自分をかえる「勉強」の方法とは?

 

 千葉氏がいうには人間は「言語」によって則られていると言います。

 

言語を使えている、すなわち「自分に言語がインストールされている」のもまた、他者に則られているということなのです。

 

 これは結構ピンとくる人もおおいのではないでしょうか?

 Twitterでバズった「用語」、バズった「話題」などは言語を介して流行っていきます。

 

 このとき、日本人である私たちは「日本語」でバズったものに反応し、何かを呟いている。あるいは呟かされているともいえるわけですね。

 

 ここで思うのは英語、ドイツ語、フランス語、中国語でバズっているものを私たちが話題にすることは殆どないということです。

 

 それを思えば言語によって私たちは左右されているというのもわかりやすいのではないでしょうか。

 

 しかし、これは同時に

 

「言語を意識することで今バズっているものとも《距離をとれる》」

 

ことを意味します。

 

 したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して「距離をとる」ためのものでもある

 

 

 勉強とは、別のノリへの引っ越し

 第二段階とはこの引っ越しの状態を意味します。

 

 そしてそれはさっきも説明したように「距離をとる」ことを可能にする「言語」の力によっておこなうことができる。

 

 新たな環境では、新たな言葉のノリに慣れることが課題となる。ものの名前、専門用語、略語、特徴的な話の持っていき方・・・・・・。その環境ならではの言い方をわざわざしなければならない。これまでのノリならこんな言い方=ものの見方はしない。そういう違和感があるでしょうー「わざわざ言っている感」がある。

  

 新しい勉強をすると、新しい言葉を学ぶ。それを使う。

 すると、何か違和感がある。

 

 どういった場面で使うべきなのか、助詞や名詞などのコロケーションは何なのかがわからない。こういった状態を「言語の不透明性」とよびます。

 

 ここで千葉氏は言語の使用法を二つに分けます

 

 ・「道具的」な言語使用

 ・「玩具的」な言語使用

 

 前者は「塩とって」のように「依頼」し相手に何かして貰うための目的を果たすための使い方をした言語のことです。

 外部に何かして貰う目的があっての言語です。

 

 

 後者はダジャレや早口言葉のようにたんにそう言うために言っているという言語使用です。これはその言語をいうことを目的としてそれ自体のためだけにある言語です。

 

 この二つを使い、ノリを打破できるといいます。

 

 道具的な言語使用は我々が普段つかっている言葉です。

 つまり、いつものノリです。

 

 これを破壊するにはあえて不透明な言語であり、それだけで目的を果たせる「玩具的な言語使用」を多用するようにすればいいのです。

 

 とうぜん、道具的言語の使用回数が減ればその世界のコードやノリからはなれることにつながります。これがまず第二段階目の自分がひきさかれるような状態にいたる道です。

 

 こうすることで、普段のノリ、普段の言語から自分を解き放つことにつながり、「自由」への道を走ることができるようになるわけです。

 

 この状態は言語偏重な人になるということです。言葉だけをいじって、自分をかえるわけですから。

 

 アイロニーとユーモアを使えるようになれ

 ノリを破壊するために

 

当たり前ですが、ノリからはずれたあなたを人々はキモイ人としてみることになります。

 浮いた人のことです。

 

 キモくなったあなたはどういうふうになっていくのか?

 

 ここで千葉氏はツッコミ=アイロニー、ボケ=ユーモアと定義します。

 

 勉強して浮いた人が、その界隈とは別の人間になります。

 

 今までのノリでは自分はもう笑顔になれない。

 

 そして、その人がその界隈に際会したとき、その界隈のノリに対して何をおこなうか?

 

 ツッコミとボケをするようになるのです。

 

 これはわかりやすいですね。

 学年がかわったり学校がかわったりすると、今までのノリと異なるノリを身につけてしまう。

 

 すると以前の友人などとあっても、もはや話があわなくなっている。

 

 そこで、ツッコミやボケをしてしまうわけです。

 

 「なんでやねん」という一言も、同じノリのなかでは浮かびませんが、違うノリにいれば簡単に意識的にでてきます。

 

 あるいは普通に話しているつもりでもノリがかわったので自然に「ボケ」がでてきてしまう。

 

 これが今までいた界隈、環境のノリから離れてしまったということです。

 

 これを「コードの転覆」といいます。

 

 要は客観視することができるようになったということですね。

 

 私たちは人のやっていることは案外わかりやすい。

 

 岡目八目というように、他人の試合をみているほうがその失敗や欠点に気づきやすいモノです。

 

 ノリからはずれた人は「メタな立場に留まる」ことができるようになります。

 メタとは高次のこと、この場合だと人々が楽しんでいるノリを上から見下ろすようにしてみることです。

 

 すると、彼らが何を楽しんでいるのかを分析できるようになります。

 ノリと距離をとることで冷静に観察するというわけです。

 

 こうして己に対してボケ&ツッコミをしつづけることで、ノリからの解放へ話がすすみます。

 

 ナンセンスという「やりすぎ」はしてはならない

 

 ここで千葉氏はナンセンスという「極限形態」を紹介しています。

 これは、アイロニーとユーモアの延長線上にあるものです。

 

 要するに「やりすぎ」のことですね。

 

 この「やりすぎ」はやってはいけません。

 

 あくまで千葉氏が紹介している理由は「ナンセンスをしっていれば、その下の状態までで留まることが出来る」からです。

 

 ここでいうアイロニーとユーモアはやりすぎてはいけません。

 アイロニーはやりすぎると、全てを否定するだけになってしまいます。

 

 こうなると「言語なき現実のナンセンス」になってしまい、我々は何も語れなくなります。

 

 ユーモアはやりすぎると「拡張的ユーモア」、「縮減的ユーモア」の二つにわかれます。

 どちらも「やりすぎ」て誰も理解できない状態になることです。

 

 当人は話がつながっているつもりで、たとえば、音楽の話が、フランスのトイレ事情の話になり、プログラミングの話になり、ムエタイの話になる・・・・・・ずっと元の話のままでありながらの「変換」としてこんな展開をすることが、できると言えばできる。

 

 コードの不確定性(ズンダ注:コードをあえてずらすことがノリから解放される方法だが、それぞずらしつづけるどこへも到着できなくなり、ただ逆張りしているだけの狂人になることを意味している)を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。(中略)ユーモアの極限は、「意味飽和のナンセンス」です。

 

 つまり、ユーモアもある程度までならば理解できるので笑える話、面白くみえるのですが、度を超すと単なる異常者にしかみえない。理解不能に至るからです。

 

 困った視聴者は「縮減的ユーモア」をしている

 

 私ズンダも放送をしていると分かるのですが、困った視聴者というのがいます。

 

 こういう人は自分の話ばかりする。

 

 最初は面白いから私もきいているのですが、どんどん自分の話、細かい話だけをしはじめる。

 

 それは他の視聴者たちにはどうでもいい話なはずです。

 

 この手の人は正に「ナンセンス」状態になっているわけです。

 

 本書の言葉を借りれば自閉的な「縮減的ユーモア」とよばれるものです。

 

 たとえば、誰かが『ドラゴンボール』を「懐かしいよねー」と言い始める。どのキャラが好きだったとか、想い出の場面とか、テンポよく話が流れていた。ところがその途中で、こんな発言が始まる。「ヤムチャと言えば、“負けキャラ"だよね、悟空に負けたときはどうでこうで、それから何々でも負けて、あと天下一武道界で天津飯に負けたときは、あの闘いは・・・・・・」

 

 Twitterでこれに似た人物が多々使われることがあるので知っている人もおられるかもしれません。

 

www.youtube.com

 

 このように本人しか楽しいと思っていないような話をずっと繰り広げてたりしてしまうのです。

 

 私はこの「縮減的ユーモア」がもっとも多くの人がやりがちなミスだとおもいます。

 自分の話をしすぎ、という欠点はビジネス書などにも必ずかいてありますが、これに等しい。

 

 ただし、千葉氏の本ではそのユーモアは自己破壊の途上ででてきてしまうことが見逃すべきでない点ではあります。

 

 

 固定しながら変化せよ

 

 私たちは「勉強による自己破壊」を学んできました。

 そこで、ボケ&ツッコミにより「ノリを壊し、新しい自由、新しいノリ」を学び、メタ視点を手に入れ、自由自在に変化する方法をしりました。

 

 ところが、やりすぎると、自分がそれをいってるだけで気持ちよくなっている「享楽的な語り」といわれる状態で人と接するはめになってしまう。

 

 千葉氏はそれを自分だけがノっているだけの最悪なノリといいます。

 

 そのノリは決して固定的なものではなく、あえてそれにもツッコミをいれることで、変化をうながすことができるはずだというのです。

 

 実際、これが勉強ということでしょう。

 ノリにうつっていくなかで私たちはまた硬直してしまう。

 

 ですが、そこから更に勉強をしつづけることでまた変化しつづけられる。

 

 勉強とは自己破壊であり、そしてそれは死ぬまで続くものなのです。

 

 ちなみに本書の補完として『メイキングオブ・勉強の哲学』という本がある。

 

 これは、この本をどうやって構成していったかが書かれた本であり、電子書籍版でないものだと「資料」がついている。

 

 私は書籍本でもっているが、電子版よりも紙書籍のほうがいいとおもわれる。

 

 ブロガーにはこっちの本もいい。

 

 

 終わりに

 さて、いかがだったでしょうか。

 私はこの本を読んだのは半年以上前でした。

 今回紹介した理由はTwitterというものがこの本にかいてあるようなノリだとおもったからです。

 

 タイムライン上に並ぶバズった話題、それに反応する人々は千葉氏が指摘するボケやツッコミなしの「ノリ」。

 

 他の界隈がそれに対して「ボケ」や「ツッコミ」をすることで更に「ノリ」が拡大し、「ノリノリ」になっていってしまう。

 

 この記事では紹介できませんでしたが、第三章以降はこの「ノリノリ」をどう防ぐのか。

 

 私たちはユーモアやボケをどう調整していくべきなのかが語られており、超重要な箇所となっております。

 

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 これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。

 

 

 

 

【朝日新聞】「エビデンス」がないと駄目ですか?村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)を紹介する!

 

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480684523/

 

みなさんこんにちは。ズンダです。

最近話題になった朝日新聞の記事で紹介されている『客観性の落とし穴』を今日は紹介します!

www.asahi.com

 

 この記事で取材を受けているのが村上氏です。

 

 Twitter上では非難囂々、「朝日はエビデンスなしの記事をかいているのか!」などと非難される有様です。実際、朝日新聞は諸々の捏造をしてきたので、「エビデンスなくてもいいじゃん!」という記事でこういうふうに叩かれるのは仕方がないことではあります。

 

 

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

私ズンダが今でも覚えているのは、慰安婦捏造と珊瑚記事捏造事件です。

なつかしい。

 

エビデンスや根拠がないことを書いてしまう。

これは非常に問題でしょう。

 

しかし、ここで取材を受けている村上氏はなぜエビデンス」にとらわれることを問題視しているのでしょうか?

 

私ズンダはこの本がでた直後に直ぐに読んでいたのですが、なかなか紹介する暇がありませんでした。せっかくの機会なので今回、どのようなことが書いてある本なのかみていこうとおもいます。

 

 

エビデンスによって見落とされるものとは?

学生の心ない発言にひそむもの

学生から次のような質問を受けることがある。 「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」  私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。

 

 とこんな出だしで始まるのが村上靖彦『客観性の落とし穴』(筑摩プリマ-新書)です。

 

 

村上氏がこの本を書いた理由は次のようなものです。

 

数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機である。

 

 つまり、数字にはあらわれることがない人生のそのときどきの体験を想像することがなければ、私たちは他人を理解できないというわけです。

 

 そこで挙げられている例として、生活保護の問題があります。

 

 学生と話している際、村上氏は「働く意思がない人を税金で救済するのはおかしい」といわれたそうです。

 

 確かにこの学生の発言は少し短絡的ですよね。労働しない人間がどういう人なのか?が考えられていない。

 

 何らかの「理由」があるのではないか?ぐらいは思ってもいいはずです。

 

でも、もしかすると、「働く意思をもたない」人にはなにかの事情があるのかもしれない。フィールドワークのなかで、うつ病で朝起きることができないひとり親家庭に出会うことがあった。その母親は、パートナーのDVから子どもを連れて逃げてきて、暴力の後遺症でうつ病に苦しんでいた。

 

 このような鬱病やヤングケアラーのような存在もいるわけです。

 そういう人々のことを全く検討に入れないのはおかしいですよね。

 

数字やエビデンスが人々をおかしくする

 

 

学生が、社会的に弱い立場に追いやられた人に厳しいのは、そもそも社会のなかにそのような厳しい視線が遍在しているからだ。そして、その言葉のなかに社会をどのように考えていくとよいのか、どう行動したら私たち自身が生きやすくなるのかのヒントもある。そこで、本書では、私たち自身を苦しめている発想の原因を、数値と客観性への過度の信仰のなかに探る。 一見すると、客観性を重視する傾向と、社会の弱い立場の人に直接の関係はなさそうだ。しかし、両者には数字によって支配された世界のなかで人間が序列化されるという共通の根っこがある。そして序列化されたときに幸せになれる人は実のところはほとんどいない。勝ち組は少数であるし、勝ち残った思っている人もつねに競争に脅かされて不安だからだ。

 

 

 そこで村上氏が考えたのは「数値と客観性への過度の信仰」のせいで、先の学生にみられるような「非情な人間」がでてきてしまう、ということです。

 

 

 

 ここで大事なのは村上氏は一応、数字も客観性も否定してはおられません。

 

 

とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している。それでも、数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。

 

 数字にでてないものは無視されてしまう。考えに組み込まれることがない。

 そういう傾向はおかしい、といっておられます。

 

この本の要約

 

 さて、この本は全八章まであります。

 村上氏による本の紹介は以下の通り。

 

第1章では、客観性という発想が生まれ、自然の探究が客観性の探究と同一視されるにいたった歴史を振り返る。  

第2章では、自然だけではなく社会や心理までもが客観的に考えられるようになり、それにともなって現代社会に生じた帰結を考える。  

第3章では数値による測定が誕生し、真理が数値で表されると考えられるようになった歴史を振り返る。  

第4章では、数値が重視された帰結として、役に立つことへの強迫観念が生じ、序列と競争が社会のルールになっていく経緯を追う。現代社会の差別と排除は、数値への信仰と切り離しては考えられない。  本書後半は、客観性と数値化への過剰な信仰から離れたときに、では、どのように考えていったらよいのかを提案する。  

第5章では、客観性と数値が重視されるなかで失われた一人ひとりの経験の重さを回復するために「語り」を大真面目に受け取ることを提案する。そして個別の経験と語りを大事にすることが何を復権するのかを考える。  

第6章では、偶然性とリズムという視点から、客観的で数値化される時空間とは異なる経験の時間を考える。客観性から切り離された水準で経験の姿を位置づけたい。  

第7章では、一人ひとりの視点から経験を解き明かす思考の一つとして「現象学という技法を紹介を紹介する。

 

 このすべてを今回の記事で書くことはできません。

 そのため、私ズンダが一気に要約しますと次のようになります。

 

科学史家のダストンとギャリソンの『客観性』という本が紹介される。客観性の歴史19世紀からで、歴史は200年程度でしかなく浅い。

科学の発達に伴い「モノ」を客観的にみることが始まり、その後、心理学なども科学主義にのみこまれ人の心を「モノ」として分析するようになった。

これに対抗するにはケアの論理という数字ではなく一人の人間の経験をきくという考え方大事。

 

 

というのがこの本の内容です。プリマ-新書という気軽に読める新書だけあっていわんとしていることは非常に簡単です。

 

この本の背景と疑問ー「生活保護者」を批判する学生の正体は?

功利主義とか自己管理とか

 

 

そもそも、内容自体がそんなに大量の頁数を必要とするものでもありません。

「数字だけでなく、個人の経験を大事にしよう!」なのですから。

 

そのため、ベンサムやミルによる功利主義(最大多数の最大幸福)やウェアラブル端末などによる自己管理なども批判されております。

 

功利主義は多くの人間が望む幸福をなるべく多くの人間に渡せることをモットーとした主義です。ただし、この考えが少数の人間を傷つけるものかどうかはちょっと言い過ぎではないかとおもいます。

米原優 「功利主義と人権―ミルにおける功利主義的兼理論の検討―」というピンポイントな博論もあるようですが、私ズンダも「ミルとかそんな厳しめのことをいってたかな?」という感じです。

 

ウェアラブル端末による自己管理は社会による責任の分散ではなくて自己責任を強めてしまうという形で批判されています。自分のことはできる限り自分でしろという話になるからですが、これが自己責任論を強めるかもなんともいえないところです。

是に関しては、私ズンダが以前紹介した本『データ管理は私たちを幸福にするか?』をどうぞ。

 

zunnda.hatenablog.com

 

私たちは数字に管理されていると人に対して寛容さを失う!?

 

むろん、村上氏の危惧もわかります。

 

新自由主義的(この本で村上氏は新自由主義という言葉は使ってない)な社会にあって、人々は自己管理や自己啓発を自分で意識しないうち行わせられていて、それを促すために数字やエビデンスが使われているという論法なわけです。

下記の『ハッピークラシー』でかかれているような内容ですね。

 

私自身はそういう論も理解できますが、データや何らかの根拠を伴った議論というのは基本的なものであって、どんな理由をつけたところで無視して良いものではないとおもうんですね。

 

また、そもそもエビデンス重視している人間は非情」みたいに思ってるようですが、どうしてそうなるのかは本書を読んでみても理解できませんでした。

 

たとえば村上氏が例に挙げた学生、生活保護者に我々の税金を与えるのはおかしい」という話も、村上氏のケアの倫理からしたらヘンな話ではないですか?

 

もしその考えで行くのだとしたら、「どうしてその学生はそんな風に考えたのだろうか?」と学生の体験をきいてみて、それを書いたたほうがよかったのではないかとおもいます。

 

『東大生、教育格差を学ぶ』を学ぶ―他者を知るからやさしくなれるー

 

実際、今年、学生に講義して自分のもっている考え方を広げさせるという本がでています。

 

『東大生、教育格差を学ぶ』(光文社新書)という本です。

私のブログでも紹介しています。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

東大生に対して教育を中心とした先生方が「なぜ格差があるのか」という話を講義することで、東大生に知識を与えることで「他者の合理性」(=あなたにとって非合理的なことは、他の人にとっては合理的、ということ)を学ばせています。

 

これは人が他人を思いやるのはエビデンスやデータによる知識的なものがあるという前提にたっているわけです。

 

たとえば、下の記事のように東大卒のアイドルが炎上しました。

なつぴなつさんのものです。

 

もしこの人がアイドル業にかまけず、東大でひたすら勉強をしていれば違った視点がえられたかもしれません。

 

news.yahoo.co.jp

 

これとは逆なのが村上氏です。

村上氏の観点には、エビデンスやデータがあると「無感覚な人間」になるという理路があります。

 

要するに、人の語り(=ナラティヴ)でないと効果がないと考えておられるようなのです。

 

私は長年にわたって、看護師や子育て支援の対人援助職、そしてヤングケアラーや精神障害の当事者、ろう者(耳が聞こえない人) やアイヌの出自を持つ人など社会的な困難の当事者にインタビューをお願いしてきた。インタビューでは質問を準備せずに二時間ほど気の向くままにあちこち話題が飛ぶのに任せて語っていただく。(電子書籍版 本書61頁)

 

この考えはおそらく、NBM(=ナラティヴベイスドメディスン)からきているのでしょう。

 

Narrativeとは物語の意であり,個々の患者が語る物語から病の背景を理解し,抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法である。NBMの特長として,①患者の語る病の体験という「物語」に耳を傾け,これを尊重すること。②患者にとっては,科学的な説明だけが唯一の真実ではないことを理解すること。③患者の語る物語を共有し,そこから新しい物語が創造されることを重視することが挙げられる。EBM(evidence based medicine)偏重時代の中で,NBMはEBMを補完するためのものであり,互いに対立する概念ではない。

 

www.jaam.jp

 

 ちなみに、このNBMと現在流行の言語化については

私ズンダのNOTEをどうぞ。

note.com

日本の大学の授業

 

 

私は、この手の話はまず議論する前に知識が重要だと思っていて、最低でも生活保護に賛成か反対か?」という議論するためのpros&consは抑えた上でやらないとダメだとおもうんですね。

 

議題にしたい内容について何も知らない状態ではじめても、胡乱なこたえしかかえってこないのは当然でしょう。

 

いうまでもなく、こういった土台作りをした上で学生が生活保護に反対です」という結論を出したとしても、それはその人個人の考えなので我々がどうこういえる問題ではありません。

 

freeconsultant.jp

 

そういえば数週間前に以下の書き込みがTwitter上で話題になりました。

 

 

 

これは大分前からいわれていたことですね。

2011年に発売された佐々木 紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか? 』(東洋経済新報社)にも似たようなことが書いてありますが、大量に本をよみ、レポートをかかせたり購読したりすることでその授業における共通知をつくりだし、生産的な議論をさせるという手法がある。

 

村上氏がこの本をかくきっかけになった学生などにもこういった授業をしていれば、何かがかわっていたかもしれません。

 

私はこの手の学生は、エビデンスが大事」という考えすらもっていないのではないか?と思っているのですが、どうでしょうか。

むしろ、データなどを軽視した結果、村上氏の意にそぐわない発言をしているのではないだろうか。

 

しかしこれもすべて想像の域をでません。学生に関しては何もかいていないのですから。

 

合理主義者は非情なのか?

最後になりますが、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』第二巻の下巻「神託まがいの哲学と理性への反逆」(155~157頁)に次のような一節があるので紹介しておきます。

 

非合理主義的な態度が万人の平等を承認しない態度に巻き込まれていくのは間違いない、と。これは、非合理主義が感情や情熱にきわめて大きな役割を与えていることと関連している。

 

なぜなら、われわれはすべての人に対しておなじ気持ちをもてるわけではないからである。(中略)だから、低劣な感情や情熱に訴えかけがなされるなら、人間を分類してしまうことはより確実に生じるであろう。

 

われわれの〈自然な〔生まれつきの〕〉反応というものは、人類を友と的に分けること、つまり、感情の共同体としてのわれわれの部族に属する人びとこの共同体の外部に属する人びととに、信じる者と信じない者とに、同胞と異邦人とに、階級の仲間と敵とに、指導者と服従者とに分けてしまうのである。

 

(中略)合理主義的態度を棄ててしまうならば、つまり、理性や論証や他者の意見などへの敬意を棄ててしまい、人間本性の〈より深い〉層を強調するならば、思考とはそのような非合理な深層に隠れているものの表面化にすぎない、という考えがみちびかれてこざるを得ないだろう。

 

それは、ほとんどのばあい、思考者の思考ではなく、その人間のほうを重く見る態度を生み出さざるをえない。

 

それは、〈われわれの血とともに考える〉とか、〈民族の遺産とともに〉とか、〈自分たちの階級とともに〉考えるといった信念をみちびく。

(読みやすいように改行、強調をいれた)

 

 では、また、次の本で。

 ズンダでした!

※誤字脱字、論旨のおかしいところがあれば直すのでいってください。

 読書案内

 

この本に関しては下で紹介してます!

zunnda.hatenablog.com

 

先ほど紹介したポパーの本です。今年、岩波文庫で新訳がでました。

大変読みやすい本です。

 

 

 

 

 

 

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散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。

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カンパのお願い

私ズンダ、弱者男性なのでお金がありません。しかし読みたい本はいっぱいある。

ということで、みなさまからの芳志を募っております。

(*^^)/お願いします。

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実践的な民主主義、理想の政治のありかた「ファンダム」を知りたい方へ!宇野重規『実験の民主主義』(中公新書)を紹介する! 

 

中央公論新社 https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/10/102773.html

 

 

 皆さんこんにちは。


 ズンダです。

 

 今回紹介する本は宇野重規若林恵『実験の民主主義』とよばれるものです。

 

 政治本ですね。

 

 宇野氏は政治思想の研究者、特にフランス人、アレクシド・トクヴィルという一九世紀の思想家について本をよくかいておられます。

 

 今回の本は、対談本というか、若林氏が宇野氏からトクヴィルと現代との関係性をききだす本なので大変読みやすいです。

 

 現代の民主主義について考えたい人はよんでみてください。

 

 また先日、私ズンダが書き上げた東浩紀『訂正する力』も一緒に読まれると勉強になると思います。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 トクヴィルとは?

 

 このトクヴィルという人物はフランス革命以降の二月革命時に青年期を迎え、祖国フランスの波乱ぶりに動揺しながらも、アメリカへ渡ります。


 その頃のアメリカは独立戦争に勝利し、第四代目のアメリカ大統領・ジャクソンが存している時代でした。

 

 そこでトクヴィルアメリカの地方分権と民主主義の広まりに注目します。

 アメリカ人は自治独立の精神でもって政治と付き合っていました。

 

 彼等の逞しさに感銘を受けたトクヴィルは帰仏した後、『アメリカのデモクラシー
』という本を書きあげます。

(他の巻は読書案内へ)

 

 民主主義を考えるために使われる思想-結社の存在-

 

 この本は政治関係の本を読んでいると頻繁にあらわれるものです。

 

 特に「民主主義とはなにか?」を考える際に必ず参照されます。

 

 私たちは民主主義が国民によるものだと説明を受けます。
 
 しかしながら、国民がそんなに政治に興味関心を抱くのだろうか?

 国民は政治のような難しいことを考えるだけの知性があるだろうか?

 

 そういう疑義が浮かんできたとき、「よき民主主義とはなにか?」という文脈でトクヴィルは読まれるのです。

 

 ここにはトクヴィルが描いたアメリカこそが理想的な民主主義であるという前提があるように思われます。

 

 みな地方分権かつ政治への自主的参加かつ中間団体=結社の存在などです。 
 
 中間団体は政治と国民との間に存在する団体を指します。

 

 キリスト教のような宗教団体や企業に属する労働団体などを想像すればいいでしょう。

 

 政治はどうしても数の力が要ります。
 数の力のために彼等は結社を作ります。


 一纏めにして自分らの利益や権利を守るために集合し、政治権力にうったえるのです。

 

 そのため民主主義にはバラバラの個人をまとめて政治に参加するための「中間団体=結社」が必須といわれるのです。

 

 私ズンダのような個人が一人で叫んでいたところで誰も話なんてきいてくれませんからね。
 
 そしてそれは皆さんもそうですよね。
 
 さて、これが政治思想で利用されるトクヴィルの考えです。

 トクヴィルが引用される場合は上記した考えをどの人も引っ張ってきます。

 

 しかし、こういった記述では現実とトクヴィルの考えがあまり噛み合っていないように感じられませんか?
 
 というのもトクヴィルがみたのは今から200年前のアメリカであり、現在とはだいぶ事情が異なっています。

 

 また、そもそも日本とアメリカでは歴史も文化も違います。

 

 すると、単純に「トクヴィルはこういってたんだ~」といわれても、「それが何なの?」って思いませんか。

 

 私はずっとそう感じてきました。

 

 どうも政治思想にとって扱いやすいトクヴィルを連れてきて、彼に穏当な民主主義の在り方を説明させているだけではないだろうか、と。

 

 そこで今回かかれた宇野氏の『実験の民主主義』の出番です。

 

 聞き手の若林恵氏が年配の宇野氏に対して今日日的なインターネットやファンダム(あることに対する特定のファンの集い)などを絡めさせながら、トクヴィルの現代化を図ろうとします。


 実に面白い本です。

 

 では、見ていきましょう。

 

 

 

ファンダムとは?

行政中心になっている現在の政治

 

ファンダムということばがこの本では随所にあらわれます。
意味としては「ファンの集い」です。

 

少し検索をかけてみると、日本においてはSF界隈で使われることが多かったようですね。

 

現在だとファンダムは漫画やアニメやゲームにかぎらず
愛好家達の集団を指すときにつかわれているようです。

 

そして、このファンダムこそがトクヴィルがいっていた「中間団体=結社」
匹敵するのではないか?というのがこの本の目新しさです。

 

巻末の宇野氏のあとがきには

「立法中心で語られる政治学だが、行政中心に語ってみたかった」とあります。

 

確かに政治学系の本を読むと「立法」の大切さやどうやって市民の関心を法に向けるかといった議論がされがちです。

 

しかし、現在は行政を担う役割である官僚が政治家の仕事である法をつくる仕事をしています。

 

すると、政治はむしろ「行政中心」になっているのです。

 

この行政の肥大化は一つの問題となっていますが、我々市民にとってはあるいみとっつきやすい。


法学の難解さと比べれば行政的な仕事は実践的であり、行動として理解しやすいからです。

 

そして、「中間団体」とは行政に働きかける団体であることを思えば、むしろ都合がいいといえます。

 

それを宇野氏から引き出すのが聞き手である若林恵氏でした。

 

ファンダムを現代政治で考える

 

彼はファンダムを次のようにいいます。

 

 ファンダムの面白いところは、まずは一元的に消費するだけの存在ではない点です。
 つまり、消費者でありながら自分で推しの情報を発信したり、グッズを作ったり、二次創作をしたりといったアクションを通して、生産者としても存在します。これは、ソーシャルメディアのなかでは全員が受信者でもあり発信者ともなるという構造と同じです。とはいえ、推しの対象は明確な商品ですから、勝手に二次創作すると著作権や肖像権の侵害となります。

 

 ところが、ここで面白いのは、ファンと、俗に「公式」と呼ばれる商品の製造元との関係性です。
これまで、消費者は一方的に情報や商品を受け取るだけの存在でしたが、双方向のメディアが登場することで、その関係性が変わりました。ファンダムは、いまや企業にとって最も重要な顧客ですから、無下に扱うことができなくなり、ファンは「公式」における監視役としての役割を担う格好にもなっています。


 この関係性は、先ほどロザンヴァロン(※政治学者。引用後に説明あり)が提起した権力の「応答性」や、市民との間の「双方向性」といった議論にも重なり、彼の語る「市民的監視団体」をファンダムが集合的に担っていると言えなくもありません。

 

 

 

 ここであらわれるロザンヴァロンとは政治学者です。
 彼が書いた本に「良き統治――大統領制化する民主主義」があります。
 宇野氏が解説を担当しておられる本です。

 

 この中でロザンヴァロンは民主主義に関して以下のように発言しています。

 

 

①これまでの民主主義は「承認の民主主義」であって、「行使の民主主義」がちゃんと問われてこなかったということです。つまり、これまでの民主主義は誰に権限を与えるかの議論ばかりで、市民が自らの権限をいかに行使するかは十分に議論されてこなかった。

 

 ②立法ばかりに注目が集まるなかで執行権が異様に強くなってしまい、議院内閣制であっても、首相がまるで大統領のように振る舞うことが可能になってしまっていることがあります。こうした大統領制化」は世界的な現象で、カリスマ的な人気を誇る政治家が独裁的に執行権を振るうわけですが、これは行政権が強くなりすぎてしまったことへの帰結でもあります。

 

 ③「応答性」という言葉で説明されています。政府が市民の声やニーズにどれだけ鋭敏でいられるかが肝心であり、それに応えることを権力者に対して義務化することで、市民の権力は保持されるとしています。(宇野氏の要約に①、②、③と番号をふった)

 

 

 

 というようにロザンヴァロンは市民が政治を監視し、要望をうったえるようにする。
 そして政府がそれに応えざるを得ない状態をつくっておくことの必要性を述べています。
 これを「応答性」とよびます。

 
 権力者が市民を無視してすきかってやっていたら、我々はこまってしまいますよね?

 そうさせないようにするには、我々市民が政府に要求しつづけなければならないわけです。


 「選挙がおわれば、その政治家のことをわすれる」ではダメで、常に覚えていて、彼らに自分たちの望みをうったえつづけること、それをロザンヴァロンはいっています。

 

 そして、この「応答性」は先ほどのファンダムの話とかぶるわけです。
 もう一度、引用してみましょう。
 

ここで面白いのは、ファンと、俗に「公式」と呼ばれる商品の製造元との関係性です。これまで、消費者は一方的に情報や商品を受け取るだけの存在でしたが、双方向のメディアが登場することで、その関係性が変わりました。

 

ファンダムは、いまや企業にとって最も重要な顧客ですから、
無下に扱うことができなくなり、ファンは「公式」における監視役としての役割を担う格好にもなっています。

 
 

 

 つまり以下の関係が成り立ちます。

 

 

政治⇔市民 


企業⇔ファンダム

政治⇔ファンダム∈市民

 

 

 

 こういった論理の展開により、トクヴィルの結社と現代的なファンダムとを結びつけているわけです。


 そこにロザンヴァロンの応答性を絡めれば、更にトクヴィル、ロザンヴァロン、ファンダムがつながり
 強固な政治理論のように感じられます。

 

 歴史上でもファンダムが政治化した例はある!

 

 実際、歴史上でもファンダムのようなことはありました。
 政治哲学者のハーバーマス『公共性の構造転換』(政治哲学者)(1962年)によれば
 次のようなことがあったようです。

 

 元々は宮廷において生まれた社交のための公共圏が、やがて宮廷外へとスピンアウトして、趣味や価値観の一致に基づくサロンやクラブ、あるいはアカデミーといった文芸的公共権と発展していったと説きます。そこでは社交だけでなく、ある種の批評や世論の形成も実現していきました。


フランスでは、フランス革命のときにそのようなクラブが増殖して政治家し、そこから生まれた勢力がフランス革命を主導していくことになります。ハーバーマスに言わせれば、文芸的公共圏が政治的公共圏に転化したというわけです。


かつてフランス革命は、マルクス主義的に言うと階級対立が先鋭化した結果、抑圧された人々が立ち上がった革命だと考えられてきましたが、

現在では、そのような政治的クラブの果たした役割が大きかったとされます。

 

 というようにフランス革命のときに力をもった集団が今でいうファンダムでした。

 単なる文藝サロンの集まりが政治に興味関心をもつ集団に変わり、政治参加するようになったのは興味深いですね。

 

 

 埼玉の虐待禁止条例改正案と市民

 

 ファンダムの現代性はインターネット社会のおかげです。

 ネットによって私たちは自分を表現しやすくなった。

 

 今や、YouTubeInstagramTikTokのおかげで個人が商品などを説明したり批判したりできる。

 

 それが一瞬で大勢の人々に伝わり、企業側はよかれあしかれ反応せざるを得なくなる。

 この状況を私たちはTwitterなどで頻繁にみています。

 

 政治で言えば埼玉の虐待禁止条例改正案が問題になりました。
 わずかの間でも子供を一人で放置すれば虐待になるという条例です。
 たとえば、親がゴミ出しにいく際、子供をひとりにすればそれは虐待扱いになります。
 
 これではとても子育てができませんよね。
 
 そういうわけで、反対が起こり、ネットやメディアで騒がれたわけです。

 

 「子どもだけの留守番は虐待? 埼玉県条例改正案に批判続出」

news.yahoo.co.jp

 
 これなどもTwitterまとめサイトなどで取り上げられ、自民党埼玉県議団は条例を取り下げざるを得なくなった。
 
 
 まさに市民が一体となり、政治へ怒りをぶつけ、県議団は「応答性」を以てこたえた。

 これが『良き統治』、優れた民主主義の例ですね。

 

 ファンダムはポピュリズムを引き起こす可能性がある

 

 もちろん、逆も然りです。

 ファンダム的な要素が悪い方向へ働く可能性もあります。
 
 たとえば、AKBがやるようなファン投票を思い出してください。

 ファンが彼女らに投票し、順位をつける。

 

 誰が人気なのかを決めるための投票は「総動員体制」ともとれます。

 一致団結、きこえはいいですが、ファシズム的な力の源にもなってしまう。

 

 そこにデマや陰謀論などが加われば、正しい議論が行われることなく
 危険な思想をもった政治家が持て囃され、国の行く末を誤らせる傾危の士をえらんでしかうかもしれない。危険ですね。

 

 実際、ここ数年、日本で見られるような参政党や元議員であるガーシー氏などの盛り上がり方はファンダム的とこの本でもいわれています。

 

 

 これらの政党や人物を皆さんがどのように支持しているかどうかで、ファンダムにどこまで期待できるかが決まるのかもしれません。

 

 少しファンダムに期待ができるとすれば、支持していた人物や政党がおかしな事をやった際、インターネット上でそれを表明できるところでしょう。

 

 この双方向性による圧力がお互いの関係性を隷属ではなく、責任あるものへと

導いてくれる可能性はあります。

 

 昨日紹介した、東浩紀『訂正する力』とも大いに関係する部分ですね。

 政治家や官僚、そして我々が、誤っていた場合、それを訂正するかどうか?

 

 ここが味噌でしょう。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 
 
 読書案内

 

『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化験の民主主義』はこの本の聞き手を務めた若林恵氏が依拠している考えである。

今回紹介した『実験の民主主義』の種本といえよう。

 

 

フランス革命時に影響を与えたシェイエスと、最新の研究によるフランス革命は誰によって起こされたか?を記したもの。大衆がどのように動いたかの勉強になる。

 

 

ハーバーマスの本。文芸的なサロンがいかに政治団体化したかを記す。

ポピュリズムはどのようにして起こるか?ファンダムの危険性もしっておいたほうがいい。

トクヴィルの主著。政治思想で必ず名前があがる古典的名著。

 

 

 

 
ファンダムと化す人々の心理とはどう考えられるのか?
推し活について考えた本をよんでみよう。

 

 

 kindleのすすめ


散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。

 ①部屋が散らからない

 ②いつでもよめる 

 ③引用がラク

 

 これだけでも読書家やブロガーにすすめられます。

 

 

 

 カンパのおねがい

 当方弱者男性ゆえ、なかなか欲しい本や飲み物がかえません。

 皆様のあたたかいご芳志を募りたいと存じます。

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訂正する力:哲学者・東浩紀氏の本が解き明かす

 

訂正する力の書影。https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=24421

 

 

 皆さんお久しぶりです。

 ズンダです。

 

 今回紹介する本は哲学者・東浩紀氏の『訂正する力』です。

 

 

 この本はそのタイトルの通り「訂正する」ということの重要性について書かれた本です。

 

 では、みていきましょう。

 ※なお本文引用の太字はすべて管理人ズンダによるもの。

 

 

 

 

 なぜ「訂正する」ことが必要なのか?

 「老化」=「訂正する力」=「成熟」

日本にいま必要なのは「訂正する力」です。 日本は魅力的な国です。けれどもさまざまな分野で行き詰まっています。政治は変わらず、経済は沈んだままです。 メディアは大胆な改革が必要だと叫びます。けれども実際にはなにも進みません。人々は不満を募らせています。

 

小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要です。

 

明治維新や敗戦によって日本は大きく変動した。

そのときの成功体験のようなものが日本人にはあり、それゆえ何か面倒毎やうまくいかないことがあるとガラガラポンにして全部ぶっこわしてしまえばいいという思考が働きがちだと東氏は指摘します。

 

 

 だから老いについて単純で暴力的な語り口が横行しています。「延命治療をやめるべき」だとか「老人は集団自決するべき」だといった議論が、定期的に現れます。  世界的に人気があるサブカルチャーの分野でも、主人公は若者ばかりです。さまざまな挫折や失敗を経験し、もがき苦しみながら生きていこうとする中高年が描かれることはあまりありません。 しかしながら人間はだれもが老います。老いは避けられないのですから、否定しても意味がありません。肯定的に語るすべをもたなければなりません。

 

 「老人は集団自決するべき」というのはここ数年で有名になった経済学者の成田悠輔氏の発言です。

 

 今やTwitterでは、社会保険料の高騰や介護の問題から老人に対して厳しいことばがなげかけられています。

 

 また、私ズンダがゲームについて散々いってきたように「老い」についての自覚や問題意識がな人たちもいます。それについては過去の記事を読んでください。

 

 

zunnda.hatenablog.com

↓この記事、編集の失敗で本文の半分が消えてしまったので上だけでいいです。

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

 

 「老い」と「訂正する力」と

 

 これは結局、日本人には「老い」をまともに考えるような思想がないのではないか?

 

 ここで東氏はそのことを「訂正する力」と重ね合わせ、次のように言っておられます。

 

 では、老いるとはなんんでしょうか。それは、若い頃の過ちを「訂正」し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

 

 実はこれは、至って普通の考えです。

 私たちは古典や歴史をならったり、自分の父母や祖父母をみて、人間の「老化」に触れてきたはずです。

 

 ですが、そういったことをすっかり忘れている。あるいは気づいていないのかもしれない。

 

 私たちの人生は「老化」を自分自身で体験する前に「周りの人間をみて知る」あるいは「教科書で昔のことを習って知る」というのが普通です。

 

 そこで「ああ、これが人間なんだ」と学ぶ。

 

 けれども実際はその年齢になってみないとわからないことが多い。

 

 でも、「老い」を否定しても仕方がないわけです。

 それは事実でしかない。「若返る」はないのですから。

 

 政治家、官僚、知識人、どの人も「誤り」を認めない、「訂正」しない

 

 そんな「老い」を考えない日本人を代表とする官僚や政治家は自分の過ちを認めないと指摘されています。

 

 それは左右の運動家や知識人などもです。

 

 

 政治的な議論も成立しません。政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。  とくに最近の左派の一部は 頑 なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。

 

 もともと東氏はリベラル知識人です。そして今もそうでしょう。

 しかし、この十年ほどリベラルな彼を襲ったのはリベラルとよばれる人々の狷介固陋な性質でした。

 

 ※詳しくは彼の『ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる 』(中公新書ラクレ)を読んでください。大変、面白いです。

 

 簡単にいえば「自分の殻に閉じこもっており、偏頗な思想を振りまいている」という厄介な頑固な存在です。

 

 

 たとえば例に挙がっているのは18代目の東京都知事猪瀬直樹氏です。

 猪瀬氏は「コンパクト五輪」を謳っていた。それにもかかわらず、五輪の費用はどんどん嵩んでいき、あらゆる企業が不正な結託をしていたことがわかった。

 

 東氏が当時、頻繁に猪瀬氏と絡んでいたのは動画でみたことがあります。その分、猪瀬氏への落胆は大きかったのでしょう。

 

 

猪瀬さんはこちらについてもツイッター(現X) で最後まで「コンパクト五輪のはずだった」と主張していました。これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません。  猪瀬さんには、『昭和 16 年夏の敗戦』という名著があります。太平洋戦争開戦前、日本政府は「総力戦研究所」というシンクタンクにエリート官僚を集めて日米開戦の 帰趨 をひそかにシミュレーションさせていた。答えは日本必敗だった。にもかかわらず、日本は戦争に突入してしまったという内容です。この歴史と東京五輪の強行は部分的に重なります。  猪瀬さんは、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えてごまかす、日本的な組織体質をよく知っていたはずです。それでもなぜ訂正できなかったのか。

 

 

 私ズンダが思うには、東氏の「訂正する力」とは、このリベラル系の人への失望によってかかれたものなのではないか。

 

 一般の日本人向けのように感じられますが、どちらかというと同業者に対しての批判が強い気がします。

 

 

 

議論が始まるためには、おたがいが変わる用意がなければなりません。ところがいまの日本では、その前提が壊れています。みな「議論しましょう」とは言うものの、自分自身が変わるつもりはなく、むしろ変わってはいけないと思っているのです。  そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。

訂正する力は、「リセットする」ことと「ぶれない」ことのあいだでバランスを取る力でもあります

 

 

 ここも大事ですね。いくら「訂正する」ことが大事といっても、もとがあまりにも「ぶれぶれ」の人間では困るわけです。そこにはきちんとした考えもないし、テキトーになにか呟いているだけでしかない。そんな人とはまず議論になりませんよね。

 

 ですから、「リセット」と「ぶれない」のあいだを目指すわけですね。

 

 魅力的な「哲学」とは?

 

 

新書といえば、テーマを絞り込み、専門家が有用な知識をコンパクトに伝えるものというイメージがあります。その点では本書は異例で、読者によっては驚かれるかもしれません。  けれどもぼくは、哲学とは「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えて、はじめて魅力的になるものだと考えています。読者と共有する社会問題についてあるていどの指針を出し、背後にあるなにかしらの独自の理論を示し、そして自分自身もそれと整合性を取るように生きている、そういう多面性を抱えていることが大事だということです。

 

 東氏の哲学論がでています。『「時事」と「理論」と「実存」』が大事だというのには私も同感ですね。

 

 やはりどうしても、私たちは今の時代に生きているので「時事」が哲学的な「理論」によって、その人のどんな「実存」を伴ってどう語られるのか?がみえてこないとパッとしないのはあるとおもいます。

 

 それゆえ、この本でも昨今話題にのぼるリベラルの「ポリティカル・コレクトネス」の問題が語られています。

 

 「ポリティカル・コレクトネス」は名詞形ではなく、動詞ではないか?

 

あいつは正しくない、だからあいつを叩くのが正義だ、と思考停止に陥ってはだめなのです。 そもそも、いまはみな「正しさ」をあまりに静的かつ固定的に捉えていると思います。ポリティカル・コレクトネスのなかのコレクトネス(correctness) という言葉はコレクト(correct) という動詞の名詞形ですが、これは本来は動詞的に捉えたほうがよいはずです。コレクトは「校閲する」とか「まちがいを正す」とかを意味する動詞で、まさに本書の主題である「訂正」を意味する言葉です。 つまり、ポリティカル・コレクトネスの「コレクト」というのは、本当は、固定した正しさがあるというわけではなく、正しい方向にむかってつねに「訂正しよう」という動きのことだと思うのです。

 

 要するに、一律的な共通善のようなものを目指して運動するというのではなく、その「時処位」によって「正しさ」が変わることがあり、それに向かって「訂正する」のが本来の「ポリティカル・コレクトネス」だというのです。

 

 ここちょっと、面白い箇所ですね。

 凝り固まった思考を解(ほぐ)すような感じがあります。

 

 むろん、それは無責任でいいというわけではありません。

 

 東氏はドイツなどで蔓延る「歴史修正主義」(たとえば、ナチスによる犯罪はなかったとする説)などについては批判されています。

 

 人間に優しさをー西村ひろゆきと異なる議論の見方ー

 

 西村ひろゆき氏の動画などを皆さんも見たことがあると思います。

 並みいる知識人達を前に、臆せず事なく「エビデンスは?」といって論破していくひろゆき氏とそれに拍手喝采するコメント。

 

 これらが並ぶ現在の日本、これに対して東氏は次のようにいいます。

 

 論破ブームにより、どんな議論でも「勝敗」で判断することが一般的になってしまいました。みな絶対に謝れなくなっているし、意見を譲って妥協することもできなくなっている。(中略)論破力が基準の世界では、訂正する力は負けてしまいます。訂正した瞬間、相手から論破したと言われてしまうのですから。では、どうしたらよいでしょうか。

 

 

 ひろゆきさん自身の言葉にヒントがあります。彼はベストセラーとなった『論破力』のなかで、討論には必ずジャッジをつけろと述べています。勝ち負けを判断する観客がいないとディベートが成立しないというわけです。 ぼくはひろゆきさんほど観客はもっていませんが、似たことを考えていました。ただしぼくが想定する観客は、勝ち負けを判断するというより、話の本題とは別の感想を抱いてしまう「いい加減な観客」です。

 

 たとえば、「このひとの主張は弱い、議論には負けてる」と判断を下しつつも、「でも悪いやつじゃないな、話の続きを聞きたいな」と思ってしまうような観客です。そういう観客が多く居ると、訂正する力が機能することがあります。話し手が意見を訂正したり、負けを認めたりしても、「それはそれ」で真意をつかんでくれるようになるからです。

 

 東氏は株式会社「ゲンロン」を設立し、そこで様々な専門家を招き、カルチャースクールや講演などを開催してきた経緯があります。

 

 そのため議論中に「論破されたな、この人」と思う場面があったとしても、観客達に「何かを残すことがある」という場面に多々遭遇してきたのでしょう。

 

 私はそんな機会はありませんが、Twitterの喧嘩をみていると、ここで東氏の考えが広まればいいなとは思います。

 

 世の中にはそれぞれの界隈毎にインフルエンサー、あるいはインフルエンサーもどきがいます。

 

 SNSでの議論はむずかしい-ズンダのいるスプラトゥーン界隈の場合ー

 

 私ズンダであれば「スプラトゥーン」というゲームをやっているため、Twitter上でのFFはそういう人たちが多い。

 

 インフルエンサーにはファン、悪く言えば「信者」がついています。

 

 たとえば、あるインフルエンサーと誰かが(=Xとよぶ)議論を始める。

 インフルエンサーがそれを論破する。

 

 すると、信者達は色めき立って、調子にのり、そのXを叩き始めます。

 自分の主が相手を論破した事への喜び、そして、その推しと一体化した信者たちによる集団行動がいっきに発生し、各所で反応がおこります。

 

 私はそれを常に気持ち悪いと思ってみています。

 

 ある見解に是非をつけるのは大事だとしても、「論破ブーム」でみられるのは、物事への暫定的な真理を求める気持ちよりも、「インフルエンサーが誰かを論破した。そして、そのインフルエンサーの信者である自分も、同じくそいつを論破したのと同じ」という錯覚であり、正に虎の威を借る狐でしかない。

 

 そして、人間には誤解やそのときの調子によって不可解な考えや錯誤した論理をもってしまうことがあるので、ある人間が論破されたからといってその人が常に頭のおかしな人間ではないということです。(常にヘンなことをいってる人がゼロとはいえませんが。)

.)

 

 その前提が「論破ブーム」には欠けているし、SNS上では議論がしづらくなる理由なのでしょう。

 

文字だけの空間ではそれができません。少なくとも、とてもやりにくい。  だからSNSは本質的に対話に向きません。訂正する力にも向きません。そういう意味で、動画の誕生は大きい。日本の硬直した言論空間を打破するために、動画はいい手段に

なると思います。

 

 人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断をまちがう。エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できるというのは幻想にすぎません。人間は信じたいものを信じる。動画とSNSの時代にはその傾向がますます強くなります。ポストトゥルース陰謀論の問題です。  だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。まちがえる。できるのはそのまちがいを正すことだけです。「あのひとはやっぱり外見だけだった、騙されていた」と反省することが大事であって、そこでうまく訂正できないと、どんどんポストトゥルースの深みに 嵌っていきます。

 

 「ポストトゥルース」とはネットが普及、様々な価値観や多様性の拡大によって、

何が真実なのかもはやわからない、といった時代のことです。

 

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 しかしもちろん、そんなに多くの真実などは実際にはありません。そこには明らかに誤った理路による臆測や紕繆(ひびゅう)があります。

 

 ですが、「訂正する力」がないと、これらの情報や思想にのっかってしまったときに後から反省することができず「ポストトゥルース」が作り出した幻影にのったままいきていくことになります。

 

 東氏のいう『訂正する力』は現代においてみられる様々な「時事」に対応するために求められる「理論」であり、彼本人の人生経験がいきた「実存」となってかかれた本です。

  

 現在の言論状況に違和感や不快感を覚えている人は、ぜひ、読んでみてください。

 思考の一助になることは間違いありません。

 

 読書案内

 この本の内容についてもっと詳しく知りたい人は『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書)を読むことをおすすめする。

 新書版はあくまで簡潔でわかりやすくかかれているものなので、物足りなく感じる人がいるかもしれない。

 

 また、煩瑣になるのでこの記事では紹介してないが、東氏は「訂正する力」について説明するために、バフチンヴィトゲンシュタイン(こちらの本はkindle unlimitedで読める)やトクヴィルなど援用している。

 

 その辺りについて更に詳しく知りたい人向けに、わかりやすい本を選んでみた。

 

 また、ドイツの歴史修正主義ポストトゥルースについての本も並べた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 散々言ってますが、Kindleは本当にお勧めです。

 

 

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③引用がラク

 

 

 

 
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 私ズンダ、弱者男性のため好き放題は本を買えません。
 そのため、皆様からのご芳志を募りたいと存じます。