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【新書 感想】結果がでなければ、その人は見捨てられなければいけないのか?【ケーキの切れない非行少年たち2】

 今回紹介する本は『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち 2』(新潮新書)です。

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 この本は著者の宮口幸治の次のような述懐からはじまります。

 

 

 「頑張ったら支援します」という言葉をかけていた、ある会社の社長が出演していたテレビ番組を見ました。その言葉をかけていた相手は元受刑者でした。かつて罪を犯した元受刑者の方々の出所後の生活や雇用の世話をしている、どこかの会社の社長さんだったかと思います。とても素晴らしい取り組みで頭が下がる思いで見ていました。元受刑者の方々もチャンスを与えてもらって生き生きと頑張っている様子が描かれていました。 しかし同時に私の脳裏には別のことも浮かんでいました。 〝彼らがもし頑張れなかったらどうなるのだろうか?〟 〝頑張ろうとしても頑張れない人たち、どうしても怠けてしまう人たちはどうなるのだろう

 

 

 私がこれまで出会ってきた、ケーキの切れない非行少年たちは、まさに〝頑張ってもできない〟〝頑張ることができない〟少年たちでした。これは病院の児童精神科外来でも同じでした。発達障害などがある子どもは、病院に来れば適切な支援につながる可能性があります。しかし、本当の意味で支援の必要な子どもたちは、そもそも病院の外来などには来なかったのです。支援してくれる人がおらず、誰も連れてきてくれないので、病院には来ることができない

 

 つまり、目に見えない認知機能が明らかに低い障礙をもった人々は、そもそも「努力する能力」をもっていないのです。

 

 私たち優しさから相手が過ちを犯した人物であっても、更正の機会を与え、その人たちが社会に戻れるように支援したり、応援したりします。

 

 しかし、そもそも青年犯罪者たちは認知機能が通常の人々よりも低く、社会に適応することが困難なのです。

 

 この問題を指摘したのが前著でした。

 これはズンダブログでも紹介しています。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 今作ではこういった現実を踏まえ、支援者と障碍者の心理を描いた本になっています。

 

 この記事では本書の第三章をざっくりみてみることにしましょう。

 

 これは障碍者に限らず、

 私たち健常者が人生で生きる上においても、同様な問題だからです。

 

 そしてここで語られていることは、今現在、アメリカで問題になっており、近いうち、日本でも必ず俎上に載るでしょう。

 

 よって、「終わりに」に二冊の本をお薦めしておきました。

 

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 頑張るというコトに価値はあるのか?

 人は結果しかみてくれない

 皆さんは人に「頑張れ」という言葉を言ったり、言われたりしたことがあるでしょう。

 

 その際、この言葉の意味を突き詰めているでしょうか。

 

 いったい、どこまで「頑張れ」ばいいのでしょうか。

 その「頑張る」は何を意味しているのでしょう。

 

 例えば仕事をする上で〝これだったら興味があって得意だから頑張れる〟というものがあったとしても、もしそれがお金に繫がらなければ評価されませんので、会社において〝できる〟ことにはならないのです。〝勉強は苦手でテストの点は悪いけど、ゲームだったら何時間でも集中してやっている〟といったように好きなことをいくら頑張ってできても、できることにはならず、逆に親から「うちの子はゲームばかりしてダメ子だ」と嘆かれることになります。要は、〝頑張ったらできる〟というのは「学校や会社など、どこかで認められる結果を出す」ということになる(太字はズンダ)

 

 宮口氏が述べるように、「頑張る」は「結果を出す」と一組になっているのです。

 私たちは、ある人が頑張っていたとしても、それだけでは評価しません。

 

 その人が「結果」を出してから、初めてその人を「見る」のです。

 

 努力の過程などに興味などない。

 

 それが私たちです。

 

 これが生徒や学生時代と変わり、社会人になったときどうなるか。

 「お金」が結果の代名詞になります。

 

 これはとても奇妙な話です。つまり頑張っていると評価されるかどうかは、極端な話、「それがお金になるか、ならないか」によったりするのです。もちろん、ボランティア活動や家事労働などを含め、直接お金にない様々な意義のある活動は多々あり、それらに価値がないと言っているのではありません。しかし〝頑張っていない〟というのは場合によると、〝お金を稼ぐことができない〟と置き換えられてしまう現実があるのも事実(太字はズンダ)

 

 悲しいことに「お金」が得られないと、今やっていることは他人からしてムダにみられてしまうのです。

 

 私ズンダなども、細々とこのブログをやっていますが、大して儲けられてないので、端から見ると、殆どムダです。*1

 

 生存確認ブログとしての価値があるだけです。

 

 好きもない、得意でもないことで生きていくのが人生

 ゲームであれ何であれ、好きなことを頑張ってそれで食べていけることが一番の幸せかもしれません。しかしそれができるのはほんの一握りで、大半の人たちは好きでないこと、あまりやりたくないことを頑張らないと生きていけないのです。頑張れない人たちに、好きなことがあれば、〝それを生かして〟と言うことはありますが、それで食べていけないから問題なのです。そして頑張れない人たちにとっては、好きでもないことに対して頑張る気持ちを出すこと自体がとても困難です。

 

 これは障碍者に限らないと思いますが、私たちは「好きなことで生きていく」ことはできません。

 「嫌なことで生きていく」が普通一般の人の人生です。

 

 よって、人生自体がそもそも嫌なコトの連続です。

 それゆえ、以前紹介した厭世主義シオランの思想が人々にとっては

愉快に感じられるわけです。

 

zunnda.hatenablog.com

 

認知機能の低さが目標を誤らせる-努力できない人たちはいる-



 無論、こうした認知機能に問題がある人々はそれが余計につらいわけです。

 

 なぜかというと、彼らは「頑張る能力」を先天的にもちえてないからです。

 

 

 頑張れることでは生活できない→好きでないことをしなければいけない→やる気が出ない→ますます頑張れない といった悪循環を辿っているのです。 頑張れない人たちにとって、この社会はとても生きにくい世界です。

 

 

〝一生懸命努力して頑張れば必ずできる〟 この言葉にどれだけ多くの人たちが苦しめられてきたことでしょう。でも、いくら励ましても、頑張っても、できない子がいるのです。そして常にできる子と比較されます。学習塾では成績優秀賞などもあります。もちろん頑張った結果、優秀な点数が取れた子もいますが、一方で元々知的水準が高くてそれほど勉強しなくてもテストで高い点数が取れる子もいます。他方でいくら努力しても点数の取れない子もいます。 私がどこに疑問を感じるかというと、 〝テストでいい点を取れた=頑張った〟 〝テストで悪い点しか取れなかった=頑張っていない〟という誤解が生じてしまう点です。いくら頑張ってもできない子どもは、確実に存在します。そして、そういった子は結果を残せないので〝頑張っていない〟と誤解されてしまうのです。(太字はズンダ)

 

 これは何の分野でもそうです。障碍者にかぎりません。

 

 私が以前からずっと述べているように

「やればできる」にはなりません

 

 やってもできないことのほうが世の中は多い。

 

 「夢をもて」とは先生や自己啓発系youtuberがよくのべますが、それで夢を叶えられない人のほうが多いわけです。

 

 ↓「夢をもて」は子供たちにとって有害な言葉であると指摘した本。非常に大事な指摘であり、私たちは「夢を持つことよりも、将来、飯をくっていけるのだろうか」という生きる上で本当に須要なことを書いています。

 

 しかも質の悪いことに「夢をもて」といって成功できなければ、つまり、お金を稼げなければその人には何も残りません。

 

 ただ、時間を無駄にしていた人という烙印を押されて、他人から蔑まれるだけです。

 

  ↓私なんぞもこんなに頑張ってゲームをしましたが、それでどうなったということもありません。任天堂から「あなたはがんばりました」という賞をもらったわけでもありません。

zunnda.hatenablog.com

 

 かくして、努力や頑張りは何ら報酬を得られないので、自分も周りも「ムダなことやってんだな」と思うようになり、当人のヤル気はどんどん下がっていきます。

 

 これが社会における無能ということです。

 

 そして、認知機能が弱い人たちは次のような傾向をもちやすいといわれています。

 

 では、概してどういった人たちが頑張れないのでしょうか。真っ先に挙げられるのは、『ケーキの切れない非行少年たち』にも書かせて頂いた、認知機能の弱さをもった人たちです。見る、聞く、想像するといった力が弱いため、いくら頑張っても入ってくる情報に歪みが生じてしまい、結果が不適切な方向に向いてしまうのです。そうしているうちにいくら頑張ってもうまくいかず、失敗を繰り返し、次第にやっても無駄だと感じるようになり、頑張れなくなるのです。知的障害児では、失敗経験を繰り返すことで、成功への期待感を低下させ、もっと上手くできる方法はないかといった工夫を次第にしなくなってしまうという国内外の研究報告(田中道治ら) もあります。(太字はズンダ)

 

 

 自分に不適切な誤りがあった場合、それを正したいという気持ちがもてるには、前提として正しく〝自分の今の姿を知っている〟ことが必要になります。自己の問題や課題に気づき、〝もっといい自分になりたい〟といった気持ちがもてることが、変化のための大きな動機づけになるのしかし認知機能が弱く〝自分には問題がない〟〝自分はいい人間だ〟などと自己の姿を適切に評価できていなければ、自分を変えようという気も生じないのです。(太字はズンダ)

 

 ここまで引用すると、読んでいて悲しくなってきますね。

 彼らは「努力しない、したくない」という人たちではないのです。

 そうではなくて、「何もわからない」状態におかれた人たちなのです。

 

 これが認知機能が低い人たちの特徴なのです。

 

 ですが、私含めて特に障碍者の診断をされていない人でもこういったことはよくあるような気がします。

 

 自分のことはなかなかわからないのは彼らに限局されたものではないですね。

 

 犯罪者の意味不明な犯行動機の理由



 

 しかし、認知機能が弱い人は、先のことを想像するのが苦手で、せいぜい〝これをやったらこうなる〟といった1~2ステップ先くらいしか見通せません。心理学者のハーマン・スピッツらの研究では、知的障害児では探索の深さは1ステップであることが指摘されています。

 例えば、漢字を覚える宿題があるとします。見通しの力とは次のようなものです。  漢字を覚える→ほめられる(1ステップ) →やる気が出る(2ステップ) →テストでいい点が取れる(3ステップ) →いい学校に行ける(4ステップ) →いい仕事につける(5ステップ)

 

 

 しかしながら、認知機能が弱いと「ほめられる」までしか見通せないのです。

 

 それゆえ、

 

 漢字を覚える→ほめられない(1ステップ) →終わり(漢字を覚えない)

 

というふうになってしまいます。勉強が全然続かないわけですね。

そして、これは勉強にかぎらず、あらゆる日常のことでも起こりうるわけです。

 

例えば、犯罪者が「気づいたらヤっていた」と供述することがありますね。

 

あれなどもこういうことらしいのです。

 

 お金が必要→目の前の人から奪い取る(1ステップ) →警察に逮捕されるかもしれない(2ステップ) →他の方法を考えよう。誰かに借りようかな(3ステップ)  

 しかし1ステップ目までしか考えられなければ、無理やり奪い取ってしまう、つまり強盗をしてしまうことに繫がるのです。

 

 つまるところ、認知力が弱いので頭の中に「よし、金をうばおう!」と浮かんだ段階で、それに歯止めがきかず犯罪者になってしまうのです。

 

 こんなにかわいそうな話ってありますか。

 しかし、これが認知力が低いということなんですよね。

 

 このため彼らは堅実な目標を立てることができません。

 将来どうすればいいか?と問うてみても「歌手になりたい、芸能人になりたい。大金持ちになりたい」という誇大妄想気味な目標を平気でいってしまう。

 

 今の自分と将来の自分との間に大きな溝があるのですが、そこに気づけない。*2

 

施設入院前と入院後の違い-指導には効果がある-

 

 さて、少年院に入った直後の彼らに将来の夢について尋ねると次のようなこたえが帰ってきます。

 

(入院時)  

1位 お金持ちになりたい( 85 人)  

2位 過去に戻りたい( 59 人)  

3位 家に帰りたい(少年院から出たい)( 49 人)  

4位 家族が幸せになる( 34 人)  

5位 仕事がしたい( 28 人)  

6位 非行をしない( 25 人)  

7位 生まれ変わりたい( 20 人)  

8位 賢くなりたい( 19 人)  

9位 自分を変えたい( 17人)

10 位 自分が死なない( 15人)

 

これが入院後になると変化します。

 

 

(出院時)  

1位 お金持ちになりたい( 94 人)  

2位 家族が幸せになる( 90 人)  

3位 過去に戻りたい( 66 人)  

4位 将来なりたい職業が実現する( 26 人)  

5位 自分が死なない( 24 人)  

5位 非行をしない( 24 人)  

7位 結婚して子どもが欲しい( 21 人)  

8位 幸せになりたい( 16 人)  

8位 イケメン、マッチョ、高身長になりたい( 16 人)  

10 位 仕事がしたい( 14

 

これらの変化を受けて、宮治氏は次のように述べます。

 

 いずれもトップはお金ですが、これは我々でも言えるかと思いますので、特に不思議ではありません。他をみると、次のようなことがみえてきます。  

・入院時の願いごとは、お金、過去に戻りたい、家に帰りたいが圧倒的に多いが、出院時になると、家族の幸せが2位に上がってくる。  

・仕事に関しては具体的な職種を挙げるようになった(しかし総理大臣や歌手など少し現実離れしているものも見受けられた)。  

・入院時に比べ、出院時にはイケメンになりたい、高身長になりたいなど外見の願いが増えた。  

・自分が死なない願い(生きたいという気持ち) が増えてきた。  

 現実的な願いも増えてきますが、一方で、自分だけのことよりも家族との関係を切望する少年が増えたこと、将来の具体的な仕事など"やってみたい”という気持ちが出てきたこと、は注目に値するかと思います。

 

認知機能が低い人でも施設で専門の指導をうけることによって、徐々に現実的な目線をもてるようになるわけです。

 

達成感には他人からの承認が必要なことを知っていますか?

 「他人と比較するな」はウソ

 さて、心理学者アルバート・バンデューラの唱えた「自己効力感」によると、やる気を出す上で大事なのは自分に自信がつくことだそうです。

 

 では、どうすれば自信がつくのでしょうか。

 

 

 それは、自己評価を上げるには、他者から評価されることが絶対に必要であることです。達成感も自信も、成し遂げたことへの周囲からの承認あってはじめて成り立つものです。成し遂げたこと自体から、ではないのです。成し遂げたことに対して周囲が言葉をかけてくれる、評価してくれることがないと、達成感や自信は出てきません。(中略)いくら無人島で素晴らしい音楽を作っても、一人でどうやって自信ややる気に繋げていくのでしょうか。そもそも他社との比較はできませんから、自己評価の基準がよくわからなくなります。自分は一体どんな人間で、どんな長所や短所があるのかは、他者との関係の中で見えてくるのです。比較しないと分からないのです。(太字はズンダ)

 

  「他人と比較するべきではない」という意見、よく耳にしますね。

 しかし、この意見は正しいでしょうか?というよりも、実現可能でしょうか?

 

 もちろん、実現不可能です。

 私たちは、社会でいきているのであって、一人で生きているわけではないからです。

 

 

 実は、この社会は〝他者からの評価が全て〟なはずです。こういうと更なる誤解が生じてしまいそうですが、集団で生活している以上、他者との関わりは避けられません。人からよく思われないとますます生きにくくなってしまうのです。(太字はズンダ)

 

 

 会社の上司、同僚、部下、得意先の人、協力会社の人、カウンセラーの先生、クライエント、主治医、学校の先生、友だち、先輩、近所の人、ママ友、SNS上の匿名の不特定多数、LINE友だち、親、きょうだい、配偶者、祖父母、親戚、我が子、等々。

 

 現代に生きる人は、こうしたあらゆる他者と関わっています。これらの人々からの評価を気にしないで生きていけるはずなどありません。それなのに、頑張れない人たちが〝他者からの評価なんて気にしなくていい〟〝無理に好かれなくてもいい〟と言われたら、どうなるでしょうか? その言葉を真に受けて自己中心的な行動をとってしまえば、ますます周囲からの評価は下がり、自信ややる気を遠ざけることになるのです。(太字はズンダ)

 

  終わりに-社会全体の認知機能を歪ませている人たちがいる-



 今回の本いかがだったでしょうか。

 宮口氏のこの本では、「頑張れない人をどうすればいいか」という問いをたて、

 そこに纏わるもろもろの問題について当事者としての対策や懊悩などを真摯にかいておられます。

 

 そして、私ズンダはこれを読んでいく中で、「でも、認知機能が低い人だけじゃないよな、これは」と何度も思う箇所がありました。

 

 そう、現代社会における「自己啓発本」の存在です。

 

 自己啓発の著者らが語る無限の可能性とは、「認知機能が弱い人たちが見る夢」と同じなのではないでしょうか。

 

 私はこれまで散々、自己啓発についてかいてまいりました。

 

zunnda.hatenablog.com

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 これらで私が述べてきたことはまとめると、ただ一つです。

 「普通に生きていくことを望みませんか?」

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 どうしても、自分の人生を華々しいものへと変えたいのはわかります。

 でも、それは本当に可能なのでしょうか。

 安定した道を捨てて、バクチにかけることが人生なのでしょうか?

 あるいは日本社会に規制緩和が必要で、サラリーマンなどくそくらえ!という人物たちの話を盛んに取り上げる人々は正気なのでしょうか。

 

 夢ばかりみて、何もできない人になるのがいい人生ですか?

 

 この自己啓発の問題点はもっと警世されるべきだと思います。

 

 ↓アメリカにおける政治哲学者サンデルによる「努力すればどうにかなる」について反駁した本である。ここでは「環境という運」の重大さが語られており、日本に先んじて自己啓発社会になってしまったアメリカの暗くて悲しい現況が描かれている。

 

 しかもこの本には政治的な「第三の道」の唱道者たちが口々に述べた「努力する人"は”助けます」ということへの批判もあり、まさに今回紹介した本『どうしても頑張れない人たち』と似通っている。

 

 ちがいがあるとすれば、「障碍者」かどうか、である。

 

 ただし、思想潮流自体が「能力主義」のために「障碍者」であるかに関係なく、こうした事態に多くの人々が陥らざるを得なくなっているのは意識しておくべきだろう。

 

 つまり、「頑張る、頑張らない」は障碍者」だけの問題ではなくなっているのだ。

 

 

↓日本の自己啓発本はいつからか。その語り口はどこからきているかを書いた本。 
やはり鍵はバブル崩壊後の九十年代にあったが、その狼煙はニューエイジあたりにある。

↓この本の中で、示唆に富む指摘がなされている。宗教学者山中宏がいう「スピリチュアル・マーケット」が現代日本の宗教の特徴である、と。そして、自己啓発もその中に入っている。

 

 

 

 

*1:最近、自分以外の人は本を読んでない、とおもうようになってきた。

*2:これを書いていて思ったが、認知機能に問題がなくてもこういう人たちは多いようにおもわれる。夢をもたせてしまう、それが日本の教育の欠点なのかもしれない。等身大の自分を見させないで、夢だけみさせてしまう。