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暗記物が苦手な受験生や資格取得を目指す方々へ、どうすれば暗記できるのか。「記憶術」を紹介する!

 覚えたいことを一瞬で記憶できたら・・・・・・そんな悩みを抱えたあなたにおすすめした本があります。

 田辺由香里『驚くほど頭がよくなる「瞬間記憶」練習帳』という本です。

 

 

驚くほど頭が良くなる「瞬間記憶」練習帳

驚くほど頭が良くなる「瞬間記憶」練習帳

  • 作者:田辺由香里
  • 発売日: 2020/11/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  記憶術を身につけよう!

  人生を楽にする

 

 

 記憶術とは暗記をたやすく行う術のことです。

 私たちは小学生ぐらいから試験のために歴史用語や漢字、長じては英単語などを覚えさせられることが多い。

 

 私ズンダもさっぱり覚えられなくて、嘆いていた記憶があります。

 しかし、この記憶術を身につければ今までよりも簡単に、更に強記な力を身につけられる可能性があるのです。

 

 記憶術の一つの例としてーイメージ法

 

 中には一般に流布されたものもあります。
 たとえば、「イメージ法」です。

 

 ある単語を覚えようとしたときに何かしらかのイメージをつけることで、覚えやすくする方法です。

 

 世界史で古代ギリシャを習った際、「ギリシャの七賢人」を習いませんでしたか?

 

 アテナイの立法者ソロン
 ミレトスの哲学者タレス
 スパルタの民選長官奇論
 プリエネの僭主ビアス
 リンドスの僭主クレオブロス
 ミュティレネの僭主ピッタコス
 ケナイの農夫ミュソン

 

 

 本書ではこれらの地名と人名とを次のように覚えます。

 

 

 ・アテナイ=アンテナ、ソロン=算盤
 ・ミレーがトスをしている、タレス→レタス

 ・キロン=長い木、スパルタ=スパゲティ
 ・クレオブロス→ブロンズのクレオパトラ、プリエネ→プリクラの絵ね

 ・ピッタコス→タコス、ミュティレネ→ミューがティを入れてね

 ・ミュソン→ミュージックソング、ケナイ→毛がないかつら

 

 

 

  というように地名や人名を自分がそこからイメージできる他の名称や構図に当てはめ、頭の中にいれていくのです。

 

 私はこうして記憶してみた

 

 ちなみに、私ズンダは、クレオブロス=マリオに出てくるハンマーを投げてくる敵=凶暴=僭主というふうに覚えています。

 更にクレオブロスが僭主を強いた「プリエネ」については、「プリティなエネルギー」と繋げました。

 

 ここで地名と人名との暗記は完了しました。

 

「プリティなエネルギーをもったハンマーをなげつけてくるブロス」
        ↓
   プリエネの僭主クレオブロス

 

 どうですか?

 こうすると、プリエネの僭主クレオブロスが身近な存在にかんじられませんか?

 

 要するに、自分がすでに記憶していることと、新しく覚えたいことを繋げる。

 

 それが記憶術なのです。

 

 これが記憶術の一つの方法です。

 

 どういう人が読むべきか

 なぜ人は復習をしなくなるのか、しないのか

 

 誰もが記憶については次のようなことを知っていると思います。

  

 インパクト×復習回数

 

 

 これはどの本を読んでもそう書いてあると思います。

 そして、そんなことは常識なんですよね。
 

 しかし、私たちはなかなか復習しない。

 

 「復習は一度習ったことのお復習いだから簡単にできるはず。だから、やれ!」

 ということは聞いたことがあるし、知ってもいる。

 

 でも、私たちはついついサボってしまう。
 

 この理由としては以下が考えられます。

 

①忙しくて、つい忘れてしまう
②復習したが、覚えられなかった

 

 私ズンダが思うに、意外に②のせいなのではないでしょうか。

 

 私たちは幼い頃から復習の大切さを説かれますが、その復習に見合った結果がでないせいで、復習に価値を見いだせないのではないでしょうか。

 

 学習性無気力症候群になってしまってはいませんか。

 

 学習性無気力とは「何度やっても、いい結果が得られないと、人はそれをやらなくなる」という症状のことです。

 

 おそらく、復習が嫌いな人は復習をしても試験で良い点がとれなかった経験があるのかもしれません。

 

 なぜ今回【記憶術】の本を紹介しているかといえば、先にも挙げた記憶の仕方を思い出しましょう。

 

 インパクト×復習回数

 

 このインパクト】の部分を【記憶術】で強化してしまえば、【復習回数】を少なくしても暗記できるから、なのです。

 

 これは何らかの理由で復習を疎んじる人々にとって朗報ではないでしょうか。

 

 そんなに復習が嫌なのであれば最初の一回でほぼ完璧に覚えてしまえば良いのです。
 回数を重ねて足らない記憶力を補う必要などありません。

 

 最初の【インパクト】が強ければ、回数は少なくても頭に残るのです!

 

 実際、私ズンダも今から十年ほど前に記憶術に触れたおかげで、飛躍的に記憶力が向上し、嫌いな英単語も二回程度復習すれば覚えられるようになりました。

 

 受験生の方や資格試験などを勉強しておられる方々はぜひこういった本をお読みになって、勉強を楽にしていってもらいたいとおもいます。

 

 では、またお会いしましょう。
 ズンダでした。
 

  

 

驚くほど頭が良くなる「瞬間記憶」練習帳

驚くほど頭が良くなる「瞬間記憶」練習帳

  • 作者:田辺由香里
  • 発売日: 2020/11/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 ちなみに、なのですが、田辺氏には「記憶術」の全体像を解説した本があります。

 はっきりいってしまうと今回紹介した『「瞬間記憶」練習帳』より先にこちらの本を読んだ方が良いです。

 

 というのも、『練習帳』は記憶術についての定見がないと取っつきにくいからです。

 教科書を習わないうちから、とつぜん問題集を解いてもわかりにくいですよね。

 それと同じで、この二冊の本はセットで読むべきです。

 

瞬間記憶術 ~たった3日で驚くほど頭が良くなる本~

瞬間記憶術 ~たった3日で驚くほど頭が良くなる本~

  • 作者:田辺由香里
  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

 ↓ただし、私は青木氏の本のほうが上記の本よりは入りやすいと思っています。

 この辺はお好みでいいかと。

 

記憶力日本チャンピオンの 超効率 すごい記憶術

記憶力日本チャンピオンの 超効率 すごい記憶術

  • 作者:青木 健
  • 発売日: 2020/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 どちらを読むにせよ、最終的には『記憶術』を身につけるための訓練をしなければならないことはいっておくべきでしょう。

 

 しかし、この訓練をすれば、これから先、記憶しなければならない場面に遭遇しても今までよりも物事が簡単に捗るようになることは間違いありません。

 

 本書を読んで、皆様の人生が豊かになることを祈念しております。

 

 

 ↓下記の本はアメリカンチャンピオンが書いた本。

 カラーや絵図が豊富で読んでいて面白いが、覚え方が英語基準なので日本人にとって役に立たない。

 ただし、記憶術の全貌を見渡すにはその読みやすさからすすめられる。

  

 ↓記憶術を身につけ、大会で優勝した人間の自伝。テクニックもそうだが、その道筋が面白い。

 「記憶術を身につけるとこんなことができるのか!おもしろそう!」と好奇心をかき立てられるような本である。

 本記事を読んでも「記憶術」に興味が湧かない人はよんでみるといいかも。

  

【新書 感想】 民主主義よりもいい?「共和政」ってなんだろう?

 

 独裁という言葉を聞くと皆さんはどんなことを思い浮かべますか。

 やはり、有名なナチスヒットラーやイタリアのムッソリーニなどを思い出すかもしれません。

 独裁者と聞くと、絶対悪のように感じられるかもしれません。
 前回の記事

  

 

zunnda.hatenablog.com

 

 でみたように、独裁者が権力に溺れ、民に対して暴虐の限りを尽くすようになることは歴史上、枚挙に暇がありません。

 しかし、今回紹介する本『独裁の世界史』の著者である木村凌二氏は次のように述べておられます。

 

 独裁には「メリット」があります。意思決定は議会制民主主義のそれと比べれば格段に早く、超法規的な措置をとれば「自粛要請」など必要ありません。個人の自由を制限してでも感染の拡大を防ぐ。

 その点において、独裁者をいただく国家が、スピードと徹底の度合いにおいて有利であることは否定できません。(中略)民主主義が「ポピュリズム」に陥り、やがて「衆愚政治」に堕していく危険性も、強烈に浮かび上がりつつあります。

 

 

 というように独裁には独裁の長所があり、民主主義には民主主義の欠点があることも事実でしょう。

 そもそもヨーロッパにおいては「独裁」と「民主主義」は対置される制度ではありません。

 

 

「独裁」と「共和制」が並び立っているのです。

 


 共和政という言葉はやや聞き慣れない方もおられるかもしれません。

 古代ローマフィレンツェで長きに亘り、平和と繁栄とを生み出し、独裁を防いできた政体それが共和政です。

 木村氏は古代ローマ史が専門のためにこの本の大部分もローマ史になっています。

 前回の記事において古代ギリシャの民主主義について書きました。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 今回は古代ローマの「共和制」の誕生とその結末をみていくことにしましょう。

 

 

 

独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

 

 

 

 ローマの歴史

 ローマの政体 概観

 

 前七五三年 ロムルスによりローマが建国されます。
 
 当初ローマは独裁制でした。
 
 最初から民主主義の国などというのはありえません。
 
 何処の国も強い人たちがその地域一帯を暴力によって支配し、まとめあげ、権力を一手に握り、一つの共同体をつくりあげていきます。

 

 初代ロムルス王の一族が王政によって七代約二五〇年間、ローマを支配します。

 七代目の王ルキウス・タルクィニウスが暴横でして、下水道工事にローマの民衆を酷使し、その息子は強姦事件を起こします。


 圧政ゆえに前五〇九年、ローマの元老院によってタルクィニウス一族は追放され、独裁が終わりを迎えます。

 

 元老院とは建国者ロムルスを助けて国家運営の一端を担った「一〇〇人の家長」たちの後裔が貴族になったといわれています。

 

 ローマは共和制へ移行した

 

 独裁後に古代ギリシャであれば民主制になるのですが、ローマ人は違いました。

 彼らは「共和政」というものをはじめます。

 

・民会
元老院
政務官(マギストラトゥス)

 

 

 これらが三つ巴になり、ローマの事々を決めていくようにしました。

 

 民会の市民達が軍事・行政を司る政務官を選びます。
 政務官の任期は一年。同じ人は連続してなることができません。
 
 政務官の最高位が執政官(コンスル)です。
 王様の役割を果たします。
 こちらは二人おり、任期は一年。 

 

 コンスルは独裁者に匹敵する力をもっていましたが、二人を撰ぶことでお互いを牽制しあうようにしていました。
 
 任期も一年なので権益を得て腐らないようにしていたわけです。

 

 また貴族の集まりである三〇〇人の元老院もいました。

 彼らの任期は終身で、政務官や民会へ助言をしていました。

 民間は初期は立法権がありませんでしたが、要求したことで元老院に準じる立法権が与えられました。

 

 コンスル元老院が平民に不利な決まりを作ろうとした場合は対抗措置として二人から一〇人の護民官を選任し、利害を守ることができました。

 こうした仕組みを作ることで、常にお互いの権力が暴走しないようにしていたのがローマの共和制でした。

 

 なぜローマ人は共和制を撰んだのか

 

 ローマ人は独裁を嫌い、タルクィニウスたちを追放しまました。

 木村氏の推測によればローマ人達は「自分たちは自由人である」という思いを強くもっていた人々だといっておられます。

 

 しかし、同時に身分の違いも意識し、それに準じた行いをすることを厭わない民族でもありました。

 その象徴として「SPQR=Senatus Populusque Romanus」(セナトゥス・ポピュルスクェ・ロマーヌス」の四文字が未だにローマ市内にちらばっています。

 

 「ローマの元老院と民衆」という意味のこの言葉は、ローマの主権者は元老院の貴族(パトリキ)と民衆(プレブス)の二つの身分であることを指しています。

 

・貴族と平民は結婚できなかった。
・選挙の投票数の割り当ても差があった。  

 

 という差別がありながらも、平民は不満があれば元老院にも意見し、ストライキも行っていました。自由のためにです。

 

 ギリシャ人は民主政、ローマ人は共和政

 

 ギリシャは民主制に、ローマは共和制の道を進みました。

 どちらも独裁であったにもかかわらず、どうして異なる制度になったのでしょうか。 *1

 

 

 木村氏は次のように言っておられます。

 

 

ギリシアの部族集団は、リーダー的な存在がいるものの、それ以外のメンバーとの間に大きな身分差がなく、共生的な「村落社会」を形成していました。

 これに対しローマの部族集団は、有力な富裕層が貴族のような「氏族社会」を形成し、それぞれの氏族が、彼らに依存する民衆を抱えていました。
 簡単にいえば、ギリシアの民衆が「○○村の私」という意識でいたのに対し、ローマの人々は「○○家とつながりを持つ私」というかたちでアイデンティティを形成していたのです。

 

 

 いってしまえば、ギリシャ人はもとより平等的であったのですが、ローマはすでに貴族による支配がギリシャよりも進んでいたがゆえに、貴族と平民との区別がギリシャよりも意識的でした。

 元老院などの組織を受け入れる素地が自然にできあがっていたということです。

 

 ローマはなぜ帝国化できたのか

 政体循環論と混合政体

 

 ポリュビオスというギリシャメガロポリス出身の貴族がいます。
 
 彼は戦争で人質となった後、ローマの貴族のもとで歴史書を編んでいます。

 彼の書いた『歴史』という書物に「政体循環」とよばれる政治体制の変遷を扱った項目があります。

 彼の故郷ギリシャは以下のような変遷が起こりました。

 

 王による独裁
 ↓
 貴族政
 ↓
 スタシス(党派による内乱)
 ※スタシスとは党派運動のこと。
 貴族が自分の利権に関わる平民を味方につけ、別の貴族(別の貴族も別の平民を味方にしていた)と争うことがギリシャでは常態化していた。
 現代でいうところの国民が分断され、互いを憎しみ合うことをいう。アメリカが適切な例。
 ↓ 
 僭主の出現(混乱を収めるために独裁)
 ↓
 民主政

 

 こういう循環を政体循環論といいます。

 政体が安定していなかった理由をポリュビオスは極端に偏っていたためとのべています。

 それに対するローマは国内が安定していたので、領土拡大が出来たというのです。

 

 では、なぜローマは安定したのか。

 

 それが共和制のおかげだというのです。

 

 彼にいわせればローマは「混合政体」型の国家です。

 

 

 二人のコンスル独裁制
 
 元老院=貴族政

 

 民会=民主政

 

 

 

 つまり、この三つの政体を合わせもっているのがローマの「共和制」でした。

 三つ巴の状態を作ることで権力が偏頗になることなく、お互いがお互いを掣肘しあう関係にあった。

 

 このため内輪揉めがスタシスに発展せず
国が治まっていたというのです。

 

 

 

 また国が本当に危機的常態にあるときは半年の期限付きで独裁官(ディクタトル)を指名し、独裁官が独りで国を率いることができるという例外をもうけていました。

 
 この他にも木村氏は「ローマ人の国に対する執着心」や「公を大切にする教育」や「国のために尽くす信仰心」などをあげておられます。

 

 共和制から帝国ローマへ

 

 「共和制ファシズム」と「無産市民」の登場


 
 さて、そんな共和制を誇っていたローマでしたが、前一世紀後半になるとカエサルが登場し、「帝政」となり、独裁化します。
 
 五〇〇年間の共和制はなぜくずれたのでしょうか。

 

 木村氏によれば「共和制ファシズム」と「無産市民」のせいです。

 

 私たちはローマときくと安定した国のイメージがありますが、五〇〇年間、周辺国への進出と侵略の繰り返しでした。

 

 ローマに限らず、古代国家は自国を維持させるために他国を蚕食するために国家予算の七割近くを軍事費としていたのです。

 

 

民衆は勝てば戦利品や土地が得られます。 

貴族は武勲を得ることができます。

 

 
 ローマの共和制は、独裁とは異なる政体ではあえりますが、軍事力にものをいわせる覇権主義であり、しかも専守防衛などではなく、「先手防衛」だった。つまり、攻撃こそ最大の防御であるという考えに基づいた軍国主義だったということを見逃してはいけないと思います。独裁を想起させるファシズムという言葉を、私が敢えてローマ共和制に用いるのは、専守防衛を是とする軍国主義であるという意味で、二〇世紀のファシズムと共通する部分があるからです。*2

 

 

 

 

 といわれるように、マリウスもスッラもカエサルポンペイウスクラッススもみな領土拡張をこなしていった帝国主義者だったのです。

 

 戦争ばっかりしていると国は疲弊する

 

 さて、戦争に明け暮れていたためローマの食糧自給率は著しく下がってしまいます。
 男性が兵役でとられ、農地が荒廃するからです。

 困窮した農民達は仕事を求め都市へ行き「無産市民」になってしまいました。

 彼らが農地を手放すと、貴族達がそれを安く買いたたきます。

 そして戦争で得た奴隷を農地で働かせ、富める者はますます富むようになります。

 

 かくして、強烈な「貧富の格差」がうまれました!

 

 

 

 すると、どうなるか。

 混合政体のバランスに変化が生じます。

 今まで民会で政治的な主張をする余裕のあった平民達は没落していきます。

 

 貴族達だけが裕福になり、一方の平民達は落魄する。

 

 故に、貴族への恨み辛みが平民の間で高まり、祖国愛は消え失せ、「自分だけが助かればいい!」という「個」の生存本能が蠢動しはじめました。

 

 こうなると共和制は崩壊していきます。

 改革派貴族のグラックス兄弟が平民のために改革をしましたが手遅れ。
 
 その後のスッラの改革は元老院が自分たち貴族の力を増すような改革をしてしまい、平民と元老院の「閥族派=利権を手放さない人たち」との対立は激しくなります。

 貴族が働かせていた奴隷達が剣闘士スパルタクスらの蜂起に合流して反乱軍を形成するまでになってしまいました。

 

 その規模はローマ軍を斥けるほどだったといわれています。

 この混乱の中、イベリア半島を制圧したカエサルがローマに凱旋し、カエサルコンスルになりクラッススポンペイスの二人と一緒に「第一回三頭政治」がはじまります。

 ローマの共和制はこうして終焉しました。
 

 共和政でも、いずれは終わる

 

 独裁者を防ぐために有効な共和政でしたが、最終的には帝政を招いてしまい、その気運を防遏することはできませんでした。

 

 共和政が崩れ去った理由をまとめると以下のようになるでしょう。

 

 

古代国家は領土拡張政策によってしか、自国を豊かにすることができなかった。 

 戦利品や土地の獲得、奴隷の売買等を通してしか成り立たない時代の限界がそこにはある。

 

 政体の崩壊理由は、
 各階級の格差が広がるせいである。
 その国の中での経済格差が共同体の絆を打ち壊し「公」→「個」への重視に切り替わってしまう。

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 ↑の記事でも触れましたが、私たちは他の国との格差によって悩むことはありません。

 しかし、自国内での格差が広がっていくと不平等であると感じやすく、それが不満の原因となり、暴動などに発展し、政府転覆といった事態になりやすいのです。

 

 まさに共和政ローマもこのようにして共同体をズタズタにきりさかれたといえましょう。

 

 

 ↓ちなみに、ローマと同じようなことが今まさにこの日本においても行われていることを皆さんご存じでしょうか。

 私たちは知らず知らずのうちに、同じ日本人を批判し、追い詰め、貶めることに参加しています。

 必読本といえましょう。

 

 終わりに

 ということで今回の記事はいかがだったでしょうか。

 木村氏がローマ史専門ということもあり、この本の大枠はローマ史にあるといってよいでしょう。

 

 なぜ独裁者は誕生してしまうのか。

 なぜ独裁の長所と短所は何か。

 

 そういったことを各国の独裁者に視点を合わせながら、綴られております。

 

 しかしまあ、人間は何主義だろうが何政だろうが、うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはうまくいかない・・・そんなだけのような気もしましたね。

 

 私たちは政体について考えるよりも、運命について考えた方がいいのかもしれません。

 ローマにしてもフィレンツェにしても、世の中に自国だけが存在していれば共和政を維持し続けることができたのかもしれません。

 

 では、またお会いしましょう。

  ズンダでした。

 

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独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

 

  ↓コロナ禍ですが、本の中でローマを旅行してみてください。

  ここいらでギリシャとローマの通史を学んでみるのもいいかもしれません!

 ということでおすすめの本をはっておきます。

 

 

 

 

 

*1:※ちなみにローマ共和制は前五〇九年だが、アテネが僭主ヒッピアスを追放し、クレイステネスの改革を経て民主化したのは前五一〇年だった。実はローマの方が「民主的」な政治は早い。この事実は面白い。

*2:※本記事では紹介しないが、本書「第十三章 ムッソリーニヒットラー」に詳しく書いてある。

民主主義とは何か?その歴史、更にメリットとデメリットをみてみよう。

 

 

 民主主義ってなんなのだろうか。

 私たちの大部分が生まれた頃から存在する民主主義。

 

 発祥の地である古代ギリシャから現在の私たち日本人にまで繋がっている民主主義は、2500年という豊かな歴史をもっています。

 

 今回紹介する宇野氏の本に以下の一節があります。

 

民主主義(デモクラシー democracy) という言葉が生まれたのは古代ギリシアです。語源となったデモクラティア(demokratia) は、人民や民衆を意味するデーモスと、力や支配を意味するクラトスが結びついたもので、「人々の力、支配」が元々の意味でした。

 

 これは非常に納得がいきますよね。

 私たち国民が政治家を選び、私たちで自分の国の行く末を決めていく、という力強い意志を感じる語源です。

 

 この記事は原点である古代ギリシャの民主主義をみてみることにしましょう。

 

 今回紹介する本は宇野重規氏『民主主義とは何か』(講談社現代新書)です。

 

 

 

 

 民主主義を語ることの難しさー2500年、完成することはなかったー

 

 民主主義を絶賛する人は少なかった



 民主主義は常に疑問視されてきた主義でした。

 よくある疑問として

 

「政治的な知識がない人々が適格な代表者を選ぶことができるのか?」

 

 があります。

 

 現在、民主主義こそが最高の制度だと認識する人は多いでしょう。

 しかし、その民主主義はいまだに何なのかを定義できないのです。

 

 著者の宇野氏も次のようにいっています。

 

 

 私たちが自明だと思っている民主主義ですが、よくよく考えてみると、それが何を意味するのかわからなくなってしまいます。

「民主主義は多数決の原理だが、少数者を保護することでもある」 「民主主義とは選挙のことだが、選挙だけではない」 「民主主義は具体的な制度だが、終わることのない理念でもある」  

 民主主義を語るとき、どうしても「~ではあるが、それだけではない」という語り方がつきまといます。

 

 これらの問いは多くの知識人達によって投げかけられてきたものでした。

 たとえば、「民主主義は多数決の原理だが、少数者を保護することでもある」とは今でもよくききます。

 

 現実的に考えると、多数決を取った候補者や政党が勝つのが民主主義です。

 少数派を保護するとはどういう意味なのか、いまいちわかりません。

 

 そもそも一般人達の意見を酌み取ることが本当にできているといえるのでしょうか。

 民主主義が理想的な制度だというのはおかしいのではないか?

 

 下の本には近代デモクラシー以前の民主主義がどのように語られていたかが紹介されている。

 

 基本的には

「民主主義を高く評価している知識人はいなかった」

 という事に尽きる。

 知識や教養のない粗野な一般人が政治家を選ぶことの危険性をみな指摘し、警戒していた。

 例外的にはトクヴィルがややアメリカの民主主義に期待を寄せている。

 

 

 

 

 かの有名なプラトンの弟子であるアリストテレスは次のように述べています。

 

 

 アリストテレスは、政治的支配について、一人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて君主政、貴族政、民主政を区別しましたが、興味深いのは、それぞれについて堕落形態があると論じていることです。すなわち、僭主政、 寡 頭 政、衆愚政です(より正確には、アリストテレスは、良き多数者支配をポリテイアと呼び、デモクラティアを否定的な意味で用いています)。いずれの堕落も、統治にあたる人間が公共の利益ではなく、私的利益に突き動かされることによって生じるとアリストテレスは考えました。

 

 つまり、どの制度であっても私的利益が公共を壊すようなことがあれば、何主義であろうが堕落するのです。

 それは民主主義に限らず、です。

 ですので、「民主主義はすばらしい!万歳!」などというのはあまりに楽観的でお粗末な見立てでして、実際はそんなことなどなかったし、知識人たちの言説も民主主義礼賛などしてはいないのです。

 

 読者が民主主義とは何なのかを掴み取るほかない



 様々な語られたかをしている民主主義について宇野氏は「この問題に対し、歴史的にアプローチしようと考えています。」といい、

 

「ある意味で、一人ひとりの読者がそれぞれに「民主主義を選び直す」ことが本書のゴールなのです。」

 

と民主主義をどう受け取るかは読者に任せると述べておられます。

 

 実際、本書で紹介されている多くの思想家達、プラトントクヴィル、コンスタン、ミル、アリストテレス、ルソー、シュンペーター、シュミット、ダール、ロールズ等々、彼らの民主主義に対する考えも異なっており、一つに絞りきれないのです。

 

 論者の数だけ民主主義がある、といった感じです。

 よって、始まりの地である古代ギリシャについてみることが最も優先されるべきでしょう。

 どの論者も、民主主義解釈は古代ギリシャからはじめるからです。

 

  それでは民主主義とはどんな歴史があるのか、みなさんと一緒に見ていきましょう!

 

 

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【新書 感想】あなたもいつもしているウ○コを昔の日本人はどういう目でみていたのか知りたくありませんか?

 ウンコについて私たちは何を知っているのだろうか

 ウンコ、この言葉を聞いただけで嫌な思いをなさる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 臭い、汚い、下品

 

 ウンコは私たちにとっては汚物なのです。
 しかし、同時にこの言葉を聞くと否応なく惹きつけられてしまう面もないでしょうか。

 近年、児童用の教材として『うんこドリル』なるものが売れに売れています。

 

 

うんこドリル かん字 小学1年生 (うんこドリルシリーズ)

うんこドリル かん字 小学1年生 (うんこドリルシリーズ)

  • 発売日: 2020/01/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 子供達はウンコが大好きなのです。

 

 いや、本記事を読めば分かるようにウンコは子供だけではなく農耕民族である日本人にとっては欠かせない肥料でした。

 

 いつから私たちはウンコを単なる汚物としてしかみなくなってしまったのでしょうか。

 今回紹介する本は『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書)です。

 

 

 


 では、見ていきましょう。

 

 聖俗と循環ー古事記や近世にみるウンコー

 スサノオノミコト、オホゲツヒメを汚いから刺殺する

 

 著者は日本古典文学の研究者である林望氏の『古今黄金譚』から次のような話を紹介しています。

 

 また食物大気都比売の神に乞ひき。爾に大気都比売、鼻口及尻より、種種の味物を取り出でて、種種作り具へてる時に、速須佐男命、そのを立ち伺ひて、穢汚して奉ると為ひて、その大宜津比売の神を殺しき。故殺さえし神の身にれる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、に麦生り、尻に大豆生りき。故ここに神産巣日命、茲れを取らしめて、種と成しき。

 

 

 オホゲツヒメは食べ物を掌る女神です。
 彼女は鼻や口、尻から美味しい食べ物を出したとかかれています。

 

 著者がみるには「食べものとウンコとはひとつながりの『環』の中にあるというイメージが伝わってくる」とのこと。

 

 しかし、スサノオノミコトオオゲツヒメノカミを「穢れている」ので殺してしまいます。
 
 しかし、その体からは「種」が落ち、次の「いのち」を作っていくことが描かれています。

 

 ここには汚いものと生命の誕生とが循環するという価値観があります。 

 

 これこそ戦前までギリギリ残っていた価値観でして、ウンコを下肥として利用していた日本人にとって、不浄であるはずのウンコは作物を育てるための肥料でもあったということです。

 

 近世のウンコー人糞尿を耕地に使用ー

 

 日本では一七世紀後半から一八世紀初頭にかけて農業技術が発達しました。
 
 増加する人口を扶養するために生産性が重要視されます。
 
 そのため、作物を効率よく育てるための肥料として糞尿をもちいた「下肥」が普及します。
 ※下肥自体は二毛作が普及した鎌倉時代ごろとされているそうです。草木灰や刈敷が中心で、下肥はまだ一般的ではありませんでした。


 近世のウンコ研究は次のようになっています。

 

①都市と農村の相互関係
屎尿が経済的価値を持つようになる過程
屎尿の取引規模や取引実態などであり、経済や社会に深く関わる議論が展開され、いずれの研究でも、根拠となる古文書の詳細な分析がなされている。

 

 

 とのこと。

 実際この時代は肥料需要が拡大した時代でした。

 

・新田開発の活発化
・城下町の発達
    ↓
・城下町に集まる人々の食糧や商売として作物の生産性上昇が肝心
    ↓
・商品作物生産の興隆による魚肥や油粕などの「金肥」を扱う肥料商の誕生、そして市場が形成される

 ※金肥はお金を出して買う肥料のこと。それゆえ「金の肥」
・堆肥・厩肥(動物の糞尿)と下肥(人の糞尿)は百姓にとって安価な肥料。

 ↓かなり昔の受験参考書で階級闘争史観と評されることもあるが、この辺りを図解で詳しく説明しているのでイメージを得るには便利。

日本史講義 2 時代の特徴と展開

日本史講義 2 時代の特徴と展開

  • 作者:安藤 達朗
  • 発売日: 1994/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 という一連の事情と進展により、肥料関連の産業が発達し、経済的な役割を持ち始めた時代だったのです。

 

 江戸における莫大な金銭や物々交換と屎尿

 

 糞尿も盛んに使われるようになると需要が供給量を上まわるので、値段が高くなってしまいました。

 その結果、百姓達は組合をつくり値下げ交渉をします。

 

 そのときに残された記録から江戸における糞尿の量と経済規模が換算できます。

 

・江戸の人口約一〇〇万人
・年間八億~一二億円の市場規模
・量は二億七千万リットル。二五メートルプール約五六〇個分

 

 

 とんでもない量の下肥が農耕肥料として売買されていました。

 糞尿のくみ取りは「下掃除(しもそうじ)」とよばれ、江戸周辺に暮らす百姓達が「下掃除人」になり、糞尿を運搬していました。

 

 彼らは武家屋敷や寺社、町人達と契約を結び、金銭や現物(野菜、漬物)を支払いその権利を得ました。

 

 ここに物々交換による経済をみることができますね。

 

 

  農学者はウンコを万物育成の肥料とみた

 

 農書(農業の具体的なやり方を書いた本)を多く記した大蔵永常という人物がいます。
 
 彼の『農稼肥培論』で次のようにかいています。

 

 凡、農業の内にて最も大切にすべきものハ、糞壌を撰ぶなり。是則ち天地の化育を助くべき内の一ツにして、百殻を世に充たしめて、以て万民の生養を厚くするの第一義なり。夫、人間に存りてハ上 天子より下庶民に至り、亦、鳥獣虫魚に及ふまでも、生とし生るもの皆食せずして生命を保つもの無事ハ、皆人知る所なり。

 

 

  と、糞壌から万物の生命は育まれ、生命が維持されると、のべています。

 「糞壌」とは「肥えた土」のことですが、この言葉に「糞」という字が当てられていることに近世の人がウンコを良いものと捉えていたことがわかるでしょう。

 

 また、『農業全書』で有名な宮崎安貞もその書の中で「糞」を「こえ=肥」と読ませています。

 

 又糞も薬剤と同じ心得にて、一色バかりハきかぬ物なり色々取合せよく熟して用る事、是肝要なり。糞にかぎりて新しきハよくきかず。ねさせくさらかし熟する加減をよく覚えて、熟したる時用れバ、其しるし多し。

 

 

 なんと、糞と薬剤の調合を同じようなものだと記しています。

 驚くべきことです。


 しかし、農業にとって下肥は彼らの生殺与奪の権をにぎっているといっても過言でないほど大事な肥料だったわけです。

 その肥料にも苦心惨憺な作り方があります。

 

 藁や塵芥、糠や籾がら、枯草などおよそ肥料となりそうなあらゆるものを取り集め、毎日家畜小屋に敷いて、牛や馬に踏ませ、ほどよくたまったら肥料小屋に移しておくようにしなければならない。

 肥料小屋がなければ、肥料をたくさんたくわえることができないものであるから、百姓たるものその分限に応じて、肥料小屋を建てておくべきである、という。(中略)蓄えられたあらゆるものが「腐熟」することで、肥料になるのである。

 寒い時期など腐熟に時間がかかる時や、腐りにくいものを入れたときには、韮を一握り揉んで入れると良いとか、戸外に置く肥桶は南向きの場所において、桶の内側まで日が差し込むようにする

 

 

 と肥料作りに腐心すべきということが書いてあります。

 これだけの苦労をしながら昔の農家は作業していたわけです。


 そんな彼らにとって、「糞」における見方が現代人と異なるのは当然だったといえましょう。

 

 そして農学者の見解は多くの百姓の者の考え方にも影響を与えたのかもしれませんね。

 ↓下の記事は江戸時代の性がどのようなものであったかを紹介した。

 この当時の出版物の影響はことのほか大きいように思われる。

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 変貌するウンコの見方ー都市化がもたらした意識の変化ー

 農業と関係のない消費者の増加

 

 こうした現代人の価値観は明治以降に誕生しました。

 都市部、東京市大阪市名古屋市などでは屎尿処理が始まり、ウンコは「廃棄物」へと変化していきます。

 また、都市への人口流入が増え始めました。

 

 都市部の人たちは農家ではありません。
 
 彼らは「土」から離れ、作物を消費する人々であり、作り手の「糞」に対しての思いはわからない人たちでした。

 

 こうした産業構造や人口構造の変化によってウンコは徐々に侮蔑の対象になっていたのです。

 

 愛知県で見るウンコへの視線の変化ー人口増加により糞尿の処理力を越える

 

 ここでは愛知県の例が紹介されています。
 愛知県は鉱業の勃興が著しく、人口も数十年間で倍々になります。

 

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本書より 人口増加の図



  一九一二年から一九二八年までに工業の割合は六二・二%から八一・二%と増加し、工業中心の都市になりました。

 この人口増加や工業の発展は鉄道網が敷かれていくことも関係しています。

 一九〇〇年から一九三五年までに次の図のように鉄道が敷かれ、それに乗じて都市域が拡大していくのがわかりますね。

 

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本書より 都市域が広がっていく

 

 ↓歴史においてインフラが果たした役割を詳細に記した本。

 人がある場所に住み出すのはインフラがあってこそであり、道路も水道も整備されていないところに好き好んで住む人はいない。

 結果としてインフラがなければ満足な発展はない、ということがよくわかる。

歴史の謎はインフラで解ける 教養としての土木学

歴史の謎はインフラで解ける 教養としての土木学

 

 

 さて、人が増えてくれば屎尿の量も莫大になります。

 公害・環境問題が出始め、愛知県では衛生組合の設置が発途し、これが内務省衛生局に採用されて、全国に普及します。

 

 愛知県では一九〇〇年に全国的に「汚物掃除法」が制定されたときですら、屎尿を「汚物」扱いしませんでした。

 

 まだ農家が重要な産業だったからです。

 

 しかし、急激な人口増加により、農家が肥料として使うことができる以上の人糞尿が排出されるようになったために一九三〇年(昭和五年)の汚物掃除法で愛知県において「屎尿」は「汚物」扱いされるようになります。

 

 大量の屎尿は下水処分が施されることになります。

 

 一九三〇年(昭和五)年には堀留、熱田に処理場が設置され、一九三三年(昭和八)年には露橋、一九三五年(昭和一〇)年には熱田下水処理場が完成した。以降、屎尿処理は徐々に下水道行政には組み込まれていくことになる。

 

 

 とはいっても、この頃までは屎尿処理技術が低かったために下肥利用との共存がなされていました。

 

 戦後、アメリカの占領下で下肥などは化学肥料にとってかわられます。

 下肥で作られた野菜は寄生虫や疫病の原因として排撃され、下肥を使っていない野菜を「清浄野菜」と呼ぶようになりました。

 

 これにバクテリアによる分解技術が発達し、下水処理されます。

 分解されたあと「汚泥」となり、セメントの混和剤、軽量コンクリート建材、セメント・アスファルト原料として、私たちに臭気を感じさせない状態で再利用され、ひっそりと循環しているのです。

 

www.sanitary-net.com


 
 終わりに

 

 ウンコの話、どうだったでしょうか。

 第三章から第五章までを駆け足でみてきましたが、かなり具体的で細かい事例を省き、流れだけを追った記事にしています。
 
 よって、ウンコの歴史を古文書や史料を駆使して解き明かしていく醍醐味が私ズンダの文では失われております。

 一読する価値のある本ですので、ぜひとも以下のリンクからお買い求めになりますよう、よろしくおねがいします。

 

 

 

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サムネ

 

【新書 感想】GAFAに代表されるお金持ちースーパーリッチーは私たちにとってどんな存在なのか

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サムネ

 


 世の中にはとんでもない大金持ちがいることを知っていますか。
 Amazonのジェフ・ペゾス、Facebookマーク・ザッカーバーグ、アリババのジャック・マー等々。

 彼らの富はとてつもないことになっています。

 今世界中で貧富の格差が広がっています。


 2017年時点で所得上位一〇%の世帯がにぎる所得のシェアは全体の五〇%を超え、大恐慌前の水準を上回っています。

 

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本書P10 上位十%の人の所得の割合

 

 更に上位一%の所得シェアは八十二年には一〇パーセント程度だったのが、二〇一七年には二二パーセントに達しています。

 

 彼らの富は凄まじい勢いで増大しています。 

 これは各国の政策による富裕層を優遇する政策がとられてきたためです。

 

 

 では今回はグローバル社会の富裕層とその影響による「新格差社会」についてみていきましょう。

 今回紹介する本は
 太田康夫『スーパーリッチー世界を支配する新勢力』(ちくま新書)です。

 

 

 

 まず、スーパーリッチとは何なのか。

 

 ビリオネア 一〇億ドル以上の所有者
 ミリオネア 一〇〇万ドル以上の所有者 

 

 彼らのことを総じてスーパーリッチとよびます。
 
 昔はミリオネアが富裕層の呼び名でしたが、ここ数十年で一〇億ドルの資産をもつ人々が急増したので、ビリオネアという言葉が使われるようになりました。

 

 世界のビリオネアについての図表をみてみましょう。

 

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本書23P 世界のビリオネアランキング

 

 

 なぜビリオネアは増えたかー株価上昇

 

 富豪は事業を起こしたり親の箕裘を継いだりした人々が多い。
 
 彼らはその会社の株式を所有していまして、その保有株の評価額が凄まじい額になっています。
 
 引用します。

 

 例えば、一九八九年に世界で最も株式時価総額が大きかった企業は日本のNTTで、一六〇〇億ドルだった。二位から五位までは邦銀で、日本以外では六〇〇億ドル強のIBMの六位が、最高だった。
 それが一九九七年にはトップが米国のゼネラル・エレクトリックの二四〇〇億ドルで、NTTは五位まで後退している。(中略)直近(二〇二〇年八月半ば)で世界最大の企業は、再び評価が高まったアップルの二兆一〇〇〇億ドル。

 世界トップ企業の株式時価総額は三〇年のあいだに一〇倍以上にも膨れ上がった。(太字ズンダ)

 

 

 と書いてあるように、株価の上昇が富裕層を更に富裕へと引き揚げていったのです。

 

 

米国 614人
中国 389人
独逸 107人 

 

 

 これだけのビリオネアがいます。
 ちなみに日本は26人で世界の国々で一七位に位置しています。

 ITなどの最先端分野の企業が育っていな
いためといわれています。

 

 なぜ格差は拡大しているのか

 

 以前、売れに売れた経済書トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)で、ピケティは「大企業の重役たちがすさまじく高額の補修を受けることが大きい」といっており、彼らを「スーパー経営者」とよんでいます。

 彼は「資本収益率」の話をし、裕福であればあるほど多額のお金を稼ぐことができ、事業者は不労所得生活者になれてしまいます。
 

 株式などの運用による収益と一般労働者の労働による収益との差が大きいためですね。

 これが格差がひらいていく理由の一つなのです。

 

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 

 ミリオネアの増加

 
 さて、問題なのはビリオネアの増加だけではありません。
 
 小金持ち(といっても、だいぶ金持ちなのだが)であるミリオネア層の更張も見逃すことができません。
 
 ミリオネアとは金融資産が10万ドル以上の富裕層を指します。

 

一九九六年 四五〇万人 一六兆六〇〇〇万ドル
 
二〇一八年 一八〇〇万人 六八兆ドル

 

 

 更に不動産も含めた資産(不動産など非金融資産を含む資産額から負債を差し引いたベース)で一〇〇万ドルを超える富裕層をみてみると、

 

二〇〇〇年 一三八八万人 三九兆ドル
二〇一九年 四七〇〇万人 一五八兆ドル

 

 

 になっており、増大の一途をたどっていることがわかりますね。

 ここでも米国が拡大の主要因になっています。

 

二〇〇〇年 七四四万人
二〇一九年 一八一六万人

 

 

 二十年でミリオネアが約一千万人も増えているのです。

 これがアメリカにおける一%VS九九パーセントの内実だといえましょう。

 資産を顕著に増やしている人々がアメリカにはいるわけです。
 
 さて世界に四七〇〇万人もミリオネアが誕生しており、彼らはすでに一つの層になっています。

 

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本書 P55 富のピラミッド

 金で政治を買える

 

 世界人口に占める比率は0.9%にすぎない彼らが世界の富の43.9%に当たる一五八兆ドルを保有しているわけです。

 

 ビリオネアに至っては二〇〇〇人いて、八兆ドルの富を保有しています。

 一万ドル以下の人たちは二八億人にて、富が六兆ドルしかないことを考えれば、
どれだけ凄まじい差があるのか、誰の目にも明らかだと言えるでしょう。

 

 たった二〇〇〇人が二八億人を上まわっているのですから!

 

 そんな彼らが国の政治に与える影響も当然、看過できないものになっています。

 

 新格差社会の到来ースーパーリッチが政治に関与し、民主主義が機能しなくなる

 

 近代以前に戻りつつある世界

 

 大金持ちが支配する政治の形式はプルトクラシー(plutocracy)とよばれています。
 古代ギリシャフランス革命以前のフランス、中世のフィレンツェなどがそうでした。

 

 ↓民主主義の歴史と変遷とを書いた本。古代ギリシャから現代までを描き、民主主義の危機や通患を浮かび上がらせている。*1

民主主義とは何か (講談社現代新書)

民主主義とは何か (講談社現代新書)

 

 

 

 金持ちが政策に与える影響とは

 

 現在、アメリカに於いて問題視されているのは金持ち集団による利益誘導です。

 

 つまり、金満家が政治家に献金することで、自分たちにとって利益のある法案を通らせようという企みが事実としてあります。
 

 経済学者のブルノ・ウイルヘルム・スペック「政治におけるマネー:政府における健全な政治的競争と信用」では以下のことがいわれています。

 

 選挙キャンペーンの寄付は、企業が集まった特定の利益グループが政府や議員に影響を及ぼす一つの経路になっている。それはロビーイング、ビジネスと政治の個人的ネットワーク、さらには賄賂などほかの経路も含む広い支店でとらえる必要がある」 

 

 利益集団が政治家に直接働きかける運動をロビーイングといいます。
 これを彼らは積極的に行っているわけです。

 

 更には米国のバイパルティザン・ポリシー・センターが二〇一八年に発表した「米国の「選挙キャンペーン・ファイナンス:抜本的変革の時代」で次のようにかかれています。

 

 「選挙ファイナンスの仕組みは一九七三年の連邦選挙キャンペーン・アクトによって規制されたが、その後の変更、とりわけ特別政治活動委員会スーパーPACーpolitical action committee)によって内容は大きく代わった。議会による規制権限が弱められ、候補者、政党、企業や組合を含むそのほかの関係者のキャンペーンへの無制限の支出が可能になった」と指摘、金がものをいう状況になっていることを示している。

 

 

 またドイツ社会科学研究所も「人民の、エリートによる、富裕層のための政府」という論文を発表しています。

 

 ここでは一九八〇年から二〇一三年までの政策決定と富裕層の意見には注目すべき関連性があると指摘されており、米国と異なり、公的なファンドによって選挙が支えられているドイツでさえ富裕層の影響下におかれていることがわかります。

 

 この他にも高額な授業料のため大学へローンなしでいけるのが富裕層の子弟だけであったり、タックス・ヘイブンによる租税回避などが横行していたりして、彼らへの抗議活動は盛んになりつつあります。

 

 超格差大国・アメリカの不都合な真実 

http://www.nihonkosoforum.org/img/npitoukan1.pdf

アメリカで政治・金融腐敗が進む理由とは

http://www.nihonkosoforum.org/img/npitoukan2.pdf

 

 ウォール街選挙運動、イエローベスト運動

 

 二〇一一年のウォール街を選挙せよ」という抗議活動や二〇一八年の「イエローベスト運動」は大変有名ですね。

 

 前者は政府による金融機関救済や富裕層へ優遇措置などに反抗したデモです。

 後者はマクロンが行おうとしている構造改革ー 一般社会税(社会保障財源)の引き揚げや富裕税の減税、キャピタルゲイン減税(株式や債券など保有資産の価格上昇から生じる利得のこと)などへの反抗でした。

 

 

 コロナ後に世界は変わるのか

 

 新型コロナがもたらした影響は「一部の企業に株主を取るか従業員を取るかの選択を迫り、富裕層に手厚い株式文化の在り方が問われる事態となった」と太田氏は述べておられます。

 

 たとえば欧州中央銀行は二〇二〇年三月二十七日、銀行尾に配当支払いと自社株買いを先送りするように要請しています。

 引用します。

 

 ECBは「銀行は新型コロナウィルス危機時において、家計、中小企業、企業に対する役割を果たすため、資本を節約し、実体経済を支える力を維持する必要がある。それはら、配当や自社株買いに優先する」と強調した。 

 

 

 というふうに株主優先ではなく、中小企業や家計などへの支援を優先するように命じたわけです。

 また富裕層自身も自分たちへ課税せよ、という趣旨の声明を発表しています。

 

 引用します。

 

 二〇二〇年七月に米ディズニー創業者一族(共同創業者ロイ・ディズニーの孫)のアビゲイル・ディズニーなど先進国の八〇人を超える富豪で構成する「ミリオネアズ・フォー・ヒューマニティ」が、「新型コロナウィルス感染が広がる中、ミリオネアには果たすべき役割がある。我々は患者の処置に当たるわけではないが、(中略)お金がある」としたうえで、政府がミリオネアに大幅課税することを訴えた。

 

 コロナを発途にこの経済格差は更に広がりを見せるとともに、その問題を是正しなければならないという動きも高まっていくことでしょう。
 
 果たして、世界はこの数十年間続いてきた「富めるものがより富む時代」から脱却できるのでしょうか。

 いや、もしこの弊竇を解決出来ない場合、血塗られた歴史が再び繰り返される可能性があります。

 

 著者は巻末に次のように書いています。

 

 不満が高まれば、富裕層に格差是正の矛先が向くのは間違いない。(中略)それが平和裏に起きるのか、暴力的なのか、経済の大混乱を伴うのか、わからないが、変革への機運は確実に強まっている。

 ↓戦争や革命などにより、金持ちと貧乏人との格差は是正される。

平和が続くと格差は再び増大する。

 そんな人類の悲しい歴史を縷析した本。

 

 

 終わりに

 

 今回紹介した本はいかがだったでしょうか。

 私が記した以外にも「新貴族文化」や「女性のビリオネア」や「ミレニアル世代の金持ち」などが取り上げられています。
 
 富裕層たちがますます勢力を伸ばし、冨を牛耳るために政府へロビーイング活動を行っている今、私たち一般人は彼らとどのように付き合っていけば良いのかを真面目に考えていく必要があるでしょう。

 これは「金持ちへの嫉妬」という問題ではありません。
 
 ビリオネアやミリオネアの力によって、プルトクラシーになりつつある政治が問題なのです。

 私たち一般人が選挙によって政治家を選び、彼らが私たちのために政治をする。

 それが成り立たなくなっている現状がこの本には描かれているのです。

 

 

 

 

 

 


 
 では、またお会いしましょう。
 ズンダでした。

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*1:この本に書いてある一節を紹介する。

どの政治的支配も「私的利益」に基づけば堕落することをアリストテレスは述べていた。

現代においてはどうだろうか。

 

 アリストテレスは、政治的支配について、一人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて君主政、貴族政、民主政を区別しましたが、興味深いのは、それぞれについて堕落形態があると論じていることです。

 すなわち、僭主政、 寡 頭 政、衆愚政です(より正確には、アリストテレスは、良き多数者支配をポリテイアと呼び、デモクラティアを否定的な意味で用いています)。

 いずれの堕落も、統治にあたる人間が公共の利益ではなく、私的利益に突き動かされることによって生じるとアリストテレスは考えました。

【新書 感想】あなたも着たかもしれない学校制服の歴史~1960年代~2020年まで制服の変化~学校や生徒はどう変わっていったか

 皆さんは、中学校や高校時代、制服を着ていましたでしょうか。

それとも、私服でしたか?

 

 襟詰めやブレザーやセーラー服など、最近ではブランドと学校側が一緒に組んで衣装を凝らした制服が各地で増えています。

 

 今日はそんな制服の歴史と変容とを書いた新書『学校制服とは何か その歴史と思想』を紹介します。

 

 今回はこの本の第六章「制服の思想」をみていきましょう。

 この章は1960年代から2020年まで、学校や生徒が制服をどのように捉えていたのかを説明しています。

 

 

 

 制服は管理社会の道具

 今とは異なり着づらい服であった

 

 

 まず、一九七〇年代までの制服とはどんなものであったか。

 筆者は次のように語ります。

 

 年配の方であれば、思い出してほしい。制服はえらく不便なものだったはずだ。1970年代までの男子詰襟と女子ブレザーまたはセーラー服は身体との親和性が高いとは言えなかった。つまりムリヤリ着こなさなくてはならず、機能性がたいそう悪かった。詰襟を着たまま小走りするだけでも息が苦しくなる。応援団の練習風景が苦行に見えるのはもっともなことだ。女子ブレザー、またセーラー服も屈伸しただけで締め付けられ痛みが走る。

 

 そう、昔は制服とはゴワゴワしてかたく、柔軟性の欠けた洋服だったのです。

 

 平成の 30 年間(1989~2019年)、制服メーカーは著名なデザイナー、服飾メーカーと提携を結び、ファッション性が高い制服を世に送り出してきた

  これらの服は、進学実績や人気度が下がってきた中学校や高校が復活を遂げるために、制服を刷新したり、あるいは私服から制服へと方向転換したことで着やすいものへと変わっていきました。

 

 このあたりのことは、本書に詳しく書いてあります。

 

 

第2章 制服誕生の舞台、

第3章 制服自由、伝統校の矜持

第4章 制服復活で学校リニューアル

 ※実は第六章を読むためには他の章を読んでいないと流れが掴みにくいことをここで述べておく。

 制服は管理的という考えが六章では展開されるが、他の章を読むと管理だけではない様々な理由があって制服は復活したり変更したりしている。

 それゆえ、著者も後書きで次のように書いている。

制服にはさまざまな思想が内在する。文化(最先端の流行、風俗)、政治(管理、統率のツール)、経済(格差の顕在化)、社会(犯罪、安心と安全)、科学(品質の技術革新)などだ。そういう意味で、これほど魅力的でおもしろいテーマはない。

 

 

 1960年代後半の高校闘争により、制服廃止へ

 

 一九六〇年代後半、高校闘争があった。

 学生運動の影響を受けて、高校生達が自由と自主性を訴えて、「制服を廃止しろ」という運動を起こす。

 制服は軍隊と同じく規律や服従を子供たちに植え付ける服であり、戦後民主主義の価値観にそぐわない服である。

 よって、高校生は私服による登校を学校、教師に求めた。

  

 制服は戦前の軍隊や封建制的な日本社会を思わせるものであり、個性や人権にそぐうために、廃止されるべきであるとの論調がこの頃にはありました。

 

 制服は生徒管理の象徴。これは1960年代の生徒による制服廃止運動で掲げられたスローガンだった。

 生徒が管理と受け止めたのは、学校側が規範とする高校生像に強く反発したからである。制服や頭髪といったヴィジュアル面での規制、登下校時に飲食店への立ち寄り制限、男女交際の禁止、アルバイトの禁止など、生徒の生活面での厳しい校則を見直すように求めた。

 地方都市では、学校から帰宅してからも、買い物に出かけたり友人宅に訪問したりするなど理由のいかんは問わず外出時には、制服着用を義務づける高校もあった。いまでいえば、ブラック校則といっていい。

 

 つまり、当時の一部の人々にとって制服とは束縛の象徴であり、自由と民主主義に反する服としてみられていたのです。

 

 

 

 ↓この高校闘争については小林氏が中公新書で詳述しておられます。

 

 この運動で制服を廃止した高校は一部でした。

 

 1970年代以降の制服ースケバンやヤンキーの登場

 

 

 制服自由化は北海道、東京、長野では「普及」したが、その他の地域では広まらなかった。たまたまなのか、制服メーカーが集中する岡山など中国、四国、九州、沖縄地方ではまったくといっていいほど、私服で通学する高校生は見かけなかった。  

 1970年代半ばから後半、制服自由化を訴える高校生が姿を消す代わりに、制服着用というルールは受け入れるがルールにのっとったお定まりの制服では満足できない層が現れた。

 

 制服廃止運動をなくなりましたが、今度はその制服を着崩す人たちがでてきます。

 一九七〇年代になるとスケバンやヤンキーなどがでてきます。

 セーラーなども性的な要素を含んだポルノ映画のタイトルなどにもなってしまいます。

 学校側としては印象が悪いために制服をブレザーに変えていきました。

 

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本書より 制服の変遷 学ラン服やセーラー服からブレザーへ移行している

 

 頭がよくない人たちは制服を着せておかなければならない

 

 「服装の乱れは心の乱れ」とよくいわれますね。

 教育者の中には偏差値の低い学校で私服をゆるすと、風紀紊乱な格好をする人ばかりになってしまい、学校の規律が乱れると危惧する声があります。

 

 

 都立蒲田高校の校長はこう話している。 「服装の自由化は、生徒や先生の質がよほどよくないとむずかしいですね。自覚のきちんとした子は何を着ても大丈夫だが、意識の低い子もいますから。人間、モーニング着れば変なところには行かないものです」(朝日新聞1978年4月 17 日)

 

 当時の校長の話にも〈生徒の質〉という言葉がでているように、この質とは

著者にいわせると、生徒の頭のよさです。

 

 高校闘争において制服自由化を得ることができたのは優秀な高校ばかりでした。

 

 

 札幌南、秋田、仙台一、仙台二、筑附、筑駒、国立、西、戸山、麻布、武蔵、女子学院、桐朋、長野、松本深志、旭丘、甲陽学院、灘、修道は、1960年代後半~1970年代前半の高校闘争で制服自由化を勝ちとった学校なので、この必要条件にしっかりあてはまる。  こんな見方もできる。

 制服自由化という権利を得られるのはエリート集団に限る。私服で通学できるのは灘、筑駒、麻布などの「特権階級」だけ、ということだ。

 ウラを返せば、成績も実行力も指導力もパッとしない学校が制服自由という恩恵を受ける資格はない。(中略)そこには、生徒への不信感がある。勉強ができず不良っぽいヤツは制服を着させて管理しなければならない。

  

 バカは制服によって管理される必要がある。

 そうでなければ乱れた淫靡な格好をしはじめる。

 

 という考えをを小林氏は指摘しています。

 今もですが、昔からこういった考えはあったのです。

 

 

 

 子供たち自ら制服を着ることを望む時代になっていたーかわいい制服ー

 時代は変わって二〇〇〇年代になると、高校闘争は遙か昔。

 若者達は制服を規律や管理社会の特徴としてみることはなくなり、自ら制服に身を包むことを好むようになります。

 

 

 高校生は造反することをやめ、学校や社会のありように興味をもたなくなった。1970年前半ばから1980年代前半にかけてのことであり、高校生は三無主義、五無主義(無気力・無関心・無責任。それにプラス無感動、無作法)と批判され、「しらけ」世代とも呼ばれた。

  

 というように、高校生は学校や社会に反旗を翻すことはなくなり「しらけ」世代と呼ばれるようになりました。

*1

 

 

 時代が変わると、少子化による進学者の減少やその学校の雰囲気を変えるために、制服が復活します。

 

 

 少子化への対応あるいは進学実績を高めて「名門校」に生まれ変わるためには、生徒に選ばれる学校づくりが必要となり、そこでは、生徒に選ばれる制服を意識せざるを得なくなった。どんな制服か。俗っぽい言葉でしか言い表せないが、かわいい、かっこいいデザインである。

  

  斯くして生徒らは自分たちで「かわいい」制服のある学校を志望し、かつては管理の象徴であった制服を纏うようになったのでした。

 

制服の思想において、かわいいという生徒の感受性が、指導という名の管理を駆逐してしまった瞬間

  

 とはいっても、当然、制服の着方に関しては一定の決まりがあります。

 やはり管理教育はどこまでも続いているのです。

 

 

 制服モデルチェンジしてからは、それを厳しく守らせるようにする。「うちの生徒は制服が好きでこの学校を選んだ」と受け止める学校のなかには、かわいい制服なのだからそれに従いなさいと言わんとばかりに、変形させたら口うるさく指導する、スカート丈は毎日しっかり点検する、少し前ならば腰パンに近いかっこうをすれば着替えさせる、など厳しく管理するところは少なくなかった。

 学校から腰パン、ミニスカートを追放するためである。

 「服装の乱れは心の乱れ」神話は、学校にとってはまだまだ有効に作用した。制服メーカーには変形できない、スカートを短くできない素材、デザインを求める声はずいぶん届いている。

 

 新しい管理の仕方ー大人しくなった子供たちは何故ふえたのかー大学進学と内申書

  

 2010年代に入ってから、制服の着こなしに少しずつ変化が見えてきた。  街で腰パンや極端なミニスカートなど、制服を着崩している不良、非行少年少女の姿がめっきり減ったのである。

 

 2010年代の変化は私たちもみていてそうかんじませんか。

 若者の服装は小綺麗で、90年代後半やゼロ年代までのような放埒さがあり感じられません。

 ※ただ私ズンダはここ最近、ミニスカートがまた流行始めていると思っている。

不景気になるとスカートの丈が短くなるとよくいわれるが、そういうことなのだろうか。

 

 子供たちになにがあったのでしょうか。

 著者は次のようにまとめておられます。

 

 

(1)学校や親に反抗する生徒が少なくなった。素直で良い子が増えた。校則は守らなければならないという遵法意識が高い。保護者の子育てが行きとどくようになった。


(2)着崩しすることが流行の最先端とは思わなくなった。制服はこのままでも十分にかわいい、とみる。

 

(3)経済的に余裕がなくなった。着崩しのための制服変形にかける金がない。勉強、部活動、アルバイトに忙しく、繁華街を着崩した制服姿でうろうろすることはなくなった。 

 

(4)学校推薦型選抜入試(推薦入試)、総合型選抜(AO入試)対策として着崩しはせず、まじめなかっこうで学校に通う。 管理されることに抵抗がなく、学校の指示には従う、かわいい制服が大好きで、着崩しはださいという見方はそれなりに合理性がある。   

 

 この中でもっとも主要な理由として小林氏は(4)をあげておられます。

 

  

 

 最近、学校推薦型+総合型の入試入学者の比率が高まっている。

 2000年33・3%、08 年 43・4%、 17 年 44・3%だ。

 大学別で2007年と2017年を比べると、早稲田大は 33・9%から、 39・5%、慶應義塾大は 14・9%から 18・7%に増えている。青山学院大学習院大、上智大、立教大は4割を超えている。

 

  というように学校での内申書を重視した大学受験合格者が急増しているのです。

 これは文科省が「入学者選抜において受験生の資質や能力などを多面的、総合的に評価する」ことを推し進めたからだといわれています。

 

 この結果、受験生は学力以外もみられるようになったのです。

 

 よって、制服の着崩しはあまりみられなくなったのです。

 

 皆様の知っての通り、大学進学率は増加傾向にあります。

 

 

 大学進学率(四年制)が高まり、これまでに大学に進まなかった層が大学で学ぶという背景もあった。大学進学率の推移は、1990年 24・5%、2000年 39・7%、2010年 50・9%、2019年 54・6%となっている。

 

 1990年代の二倍が大学へいくのですから、昔と今とでは生徒の考え方にも違いが出てくるのはあたりまえかもしれません。

 当時の人々にとっては高校が社会に出る前の最大の遊び場だったともいえましょう。

 

 

 

終わりに

 

 今回は制服の思想と歴史についての新書を紹介しました。

 約一ヶ月ぶりのHP更新でして、読者の皆様にはもうしわけなくおもっております。

 やや忙しかったのとyotuubeのほうに力をいれていたので、更新する暇がありませんでした。

 

 今回の本はジャーナリストの小林氏による本です。

 学者とは異なり、ジャーナリストによってかかれたものは、やや資料の羅列に陥りがちで、この本もその弊害を逃れてるとはいいがたいです。

 

 学校への取材や当時記された小冊子の引用などは豊富ですが、いまいち「制服とは何なのか」は剖析されていないようにおもえます。

 

 この辺りがやや物足りなかった。

 

 しかしながら、制服変更の理由や結果などに興味のある方にとってここまで詳しく書かれた新書もないので、価値があるといえるでしょう。

 

 ぜひお手にとってみてください。

 

 では、またズンダでした。

 

目次

第1章 制服モデルチェンジの論理
第2章 制服誕生の舞台裏
第3章 制服自由、伝統校の矜持
第4章 制服復活で学校リニューアル
第5章 制服を作る側の戦略
第6章 制服の思想

 

 

*1:※しかし、私ズンダが思うに、たった数年間しか反旗の時代が続かなかったのだとすれば、単なる流行の域をでていないのではないでしょうか。

 

 

 

 その根底に深い思想などなく、大学生が騒いでいるから自分たちも騒いでやろうという野次馬根性に似た流行病でしかなかったようにおもえます。

 

 深甚なるものを認めることができるでしょうか。

【新書 感想 レビュー】2035年にはガンは治せるようになっている?希望に満ちあふれた未来の医療を知りたいあなたへ!

 

 医療の進歩について興味ありませんか?

 

 私たちの苦痛や持病や難病、そういったものを解決できるとしたら、皆さんは人生に対して希望がもてるのではないでしょうか。

 巻頭にある著者の文を引用します。

 

 2020年現在、医療は「完成期」に入りつつある(中略)「完成期」とはすなわち、人間が病気では簡単に死ななくなる時代、ということです。(中略)人がすでに病気では簡単に死ななくなりつつあること、そして今後ますますそうなっていくのは裏打ちのある真実であることを深く納得していただけるはずです。

 

と、劈頭、びっくりするような文言がならんでいます。

 そう。
 私たち人間は長足の進歩によって、「病気で死ぬことがない時代」に突入しているのです。

 最先端の医療についてみていくことにしましょう。
 加えて、私たちが難病やワクチンをどういう視点でみればよいのかも記述していきます。

 では、『未来の医療年表』(講談社現代新書の始まりです。

 

 

 

 2035年、ガンは人間に克服される

 

 ガンは遺伝子の問題ー二つの薬

 

 ガンは遺伝子の異常によって引き起こされる遺伝子疾患といわれています。

 2000年代にはいってからガンを引き起こす遺伝子を正す「分子標的薬」ができました。
 
 分子標的薬はガンを引き起こす特定の遺伝子のみを攻撃できます

 要するに今まではガン以外の健全な組織も攻撃してしまっていたため人々の身体に損害を与えていたわけですが、それが比較的抑えられるようになっているということです。

 

 この薬の開発は乳ガン、胃ガン、血液などからはじまり、進歩してきました。

 

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本書より

 

 更に2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑らが開発した「免疫チェックポイント阻害剤」もガン治療には有効だといわれています。

 

 ガン細胞は人間の免疫細胞にブレーキをかけるのですが、このチェックポイント阻害剤はブレーキを阻害し、人間の免疫力を復活させるという効力があるのです。

 

 これにより2030年から2035年頃までにはこの二つを組み合わせたガン治療薬が誕生しているといわれています。

 

 私たちはガンで死ぬことから解放されるということです。

 

 「難病」って何?

  難病の定義と歴史

 

 難病とは良く聞く言葉です。
 私も友人に難病の人がいるのですが、数が少ないのでそんなに耳にするようなことはありません。

 実は難病は国による明確な定義があります。

 

 旧厚生省は1972年に「難病対策綱領」を策定し、次のように定めました。

 

 

 原因不明、治療方法未確立であり、かつ、後遺症を残すおそれが少なくない疾病

 経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず介護等に著しく人手を要するために家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病

 

 

 と定義しています。

 このとき難病に入ったのがベーチェット病、重症筋無力症、全身性エリテマトーデス、スモン」の四つで医療費助成の対象になりました。

 

 2015年には、難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)が施行されました。 


 

患者数が一定の基準(国の人口の0.1%程度)より少ない

客観的な診断基準がある

 

 

 難病を「指定難病」にし、医療費助成の対象としました。
 このときに全部で110疾患が指定難病になります。

 潰瘍性大腸炎パーキンソン病モヤモヤ病などです。

 2020年8月現在だと、333疾患にものぼります。

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本書より

 

 これだけの病気が「難病」扱いされ、治療できないままになっていることを思うと、生きることの大変さがわかりますね。

 私たちはいつこういった病気に自分が罹ってしまうかわからないわけです。

 病気は突然やってきて、その人から人生を奪い去ってしまいます。

 

 しかし、「難病」には何の希望もないかといわれれば、それは違います。

 

 難病指定は解決の余地がある

 

 

 難病指定される病気は「客観的な診断基準」が求められます。

 ここには遺伝子解析が進歩した結果、「あなたの病気は難病です」といえるようになったと考えられるのです。

 

 もしこれが本当に病気であったか分からない場合、風邪と間違えられたり、単なる怠け者として扱われるだけだったりします。
 

 医療分野において新生面がひらかれたおかげで、病気と認定できるようになったのです。

 そして難病指定は「なんとかなるかも・・・」という病気が指定されるといわれています。

 

 公衆衛生と予防接種

 社会全体で人の健康を守る

 

 公衆衛生という概念は1920年アメリカの細菌学者チャールズ・エドワード・A・ウィンスローが定義した次の言葉からはじまります。

 

 共同社会の組織的な努力を通じて、疾病を予防し、寿命を延長し、身体的、精神的健康と能率の増進をはかる科学や技術

 

 

 上記の文にもあるように公衆衛生とは社会全体で健康を保つために協力しあおう、という考えなのです。

 

 たとえば、一つの例がインフルエンザワクチンの予防接種です。

 

 インフルエンザは若い人が感染しても死に至ることはあまりありません。
 よって、若年層にはワクチンを受けたくないのであれば、それはそれで構わないわけです。

 しかし、高齢者や糖尿病、心臓病などの基礎疾患をもっている人にとっては非常に危険です。

 若人が媒介者になり、彼らに感染させてしまう危険がある。
 それは社会全体に有害な影響を与えてしまうからこそ、ワクチン接種がよびかけられているのです。

 こういった社会全体を踏まえて、医療体制を整えることが公衆衛生の考え方です。

 

 ワクチン接種が義務でなくなった理由ーインフルエンザと子宮頸がんワクチン

 

 ただし、ワクチン接種は公衆衛生のために必要だといわれても、インフルエンザワクチンは義務づけられてはいません。

 

 1976~1987年まで年小中学生に向けてワクチン接種が義務化されていました。

 高齢者も含めて年間約37000人から49000人ほどの命を救っていたと考えられているようです。

 

 しかし、このインフルエンザワクチンの接種は今では義務ではなくなりました。

 副作用の可能性があるからです。

 

 私たちは病院へ行き、ワクチン接種を受けた後、「具合、悪くありませんか?」ときかれますね。

 

 アレルギー反応でアナフィラキシー様症状(発疹、じんましん、赤み、かゆみ、呼吸困難など)が出るうえに、数万人に一人の確率で死亡例があるからなのです。

 

 最大約五万人程の人間を救うことができるが、ワクチン接種によって誰かしらかは死ぬ可能性が出てくる。

 そうなると、政府の方も義務づけできなくなってしまったわけです。

 

 こういったことは十年ほど前にも話題になりました。

 

 子宮頸がんワクチン問題

 

 子宮頸がんワクチン(HPVワクチン)をうたれた女性が全身の痛みやマヒなどのしびれを訴えるという事態が発生したのです。
 
 私ズンダも当時ニュースでこの報せを見て、驚きました。

 若い女子中学生が車椅子に乗り、自分で歩くことがままならない姿を見てかわいそうに感じました。

 

 この報道は盛んに行われ2013年以降6月以降は「積極的な接種勧奨の差し控え」が続いています。

 

 この子宮頸がんはヒトパピローマウイルス(HPV)が原因で起こるガンです。

 

  ↓女性必読の書。子宮の病気は女性の人生に大きな影響を与える。

ドクターが教える! 親子で考える「子宮頸がん」と「女性のカラダ」

ドクターが教える! 親子で考える「子宮頸がん」と「女性のカラダ」

  • 作者:太田 寛
  • 発売日: 2020/09/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

・日本では毎年一万人が罹患
 英米オーストラリア、北欧ではワクチンのおかげで有意に低下している

 

・WHOは子宮頸がんワクチンの安全性の問題はみつかってないと発表している。

 

・2015年にはWHOのワクチン安全性諮問委員会が「若い女性をHPVによるがんの危険にさらしている」と批判しています。

 

 リスクをどう考えれば良いのか

 

 ここで考えなければならないのは結局、リスクなのでしょう。

 

 たとえば100人のうち1人が死ぬ。
 しかし99人は救われる

 という問いがあったときに私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 

 もしHPVワクチンをあのままうっていたら、多くの女性は子宮頸がんにならなくてすんだかもしれません。

 無論、麻痺などが起こる女性はでてきたでしょう。

 

 少数のワクチンによる副作用が起こる人たちと、大多数のワクチンによって救われる人たちとがここで天秤にかけられているわけです。

 

 ↓反ワクチン運動といわれるものによって、どれだけ多くの生命が失われているのかを説いた本。一人を助けるか九九人を助けるか。

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択

 

 

 

 大変難しい問題です。 

 正直、大多数が救われるからと言って少数の人間を等閑にしていいわけがありません。

 一方で、子宮頸がんワクチンをうてば助かった人々が多かったことを思うとそれも無視できないですね。

 

 当たり前ですが、私たちは皆が老衰で死ぬわけではありません。

 不慮の事故や思わぬ病気などで、本来の寿命を迎える前に死ぬ人たちなどがいるわけです。

 

 その際、常に数字を考えねば成りません。
 無論、私たちは常に数字を意識して物事を決定できるわけではないし、それが絶対に悪いといいきれないことは、以下の書物にも書かれているとおりです。

 

 

 

 しかしながら、データや統計などを全く無視して、何かを判断することが正しいかといわれたらそれも違います。

 

 

 

 奥氏はヘルスリテラシーという概念を紹介しておられます。
 引用します。

 

 デンマークの公衆衛生学者クリスティン・ソーレンセン博士は2012年に著した論文で、ヘルスリテラシーに関して以前から存在した「17の定義と12の概念モデル」について検討し、ヘルスリテラシーとは「ヘルスケア、疾病予防、健康増進という三つの領域の健康情報にアクセスし、理解し、評価し、利用できる、知識、意欲、能力のこと」であると整理しました。

 

 

 私たちは自分たちで情報を集めるだけの意欲をもって、なるべく理解し、自身の体を理性的に保っていかなければならないということです。

 

 そしてこれは、医学の話だけではありません。
 政治や経済など、私たちの生活に密接していることについても常に新しい情報や知見を求め、学んでいく必要があるでしょう。
  

  終わりに

 

 大変読みやすい本です。二時間ほどで読了できるでしょう。

 奥氏は医療についての情報を東日本大震災の頃から積極的に発言しておられたためか本書は素人が読むのに相応しい水準の本になっております。

 

 自分の病気に不安を覚えておられる方。あるいは将来「自分がこんな病気になったらどうすればよいのだろう」と考えておられる方は必読の本といえるでしょう。

 本書が皆様方の不安を払拭する一書になることを願っております。

  ただし、本書でもかかれている日本の借金が一千兆円であり、財政赤字によって良質な医療が提供できないという話に対しては賛同できない。

 私ズンダが新書を読む度に頻繁に目にする言葉が財政赤字のせいで日本は何かを削るしかない」という話だが、もういい加減、聞き飽きた。

 

 特に福祉に関して「国による支援を!」と訴えていたり、あるいは「古い考えに拘泥することなく進取的に新しい考え方を摂取しよう!」と主張していたりする学者や知識人が「日本には借金があるから」と言い出す度に、吹いてしまう。

 

 どの分野でも知識の更新があってもよいのではないか。

 私ズンダが新書を勧めている理由は、

 

 

1 読みやすい

2 専門家による最新の学説を学べる

3 値段が安い

 

 

 からである。

 無論、全てが良書であるはずがない。

 しかしそんなことをいっていては、いつまでも学習などできない。

 

 私たちはその都度その都度、自分のできる限りの範囲で不完全なことを一生懸命まなぶしかない。 

 それがリテラシーではないか。

 

 

 人間は専門のことも専門外のことも鑿窓啓牖していくべきであり、その方が人生の質が上がるのであれば、素直に考え方を改めて、多くの人々が幸せになれる道を唱導していくべきではないだろうか。

 

 だからこそ『未来の医療年表』のような本は価値があるのだし、またこういった医療を多くの日本国民が受けられるようなリソース作りをするためにも「財政赤字」という虚妄はうち捨てられるべきであろう。

 お金の問題ではないのである。

 

 

 

 詳しくは以下に紹介したMMTの学者として知られるステファニー・ケルトンによる『財政赤字の神話』。

 もしくは日本人による緊縮財政批判の本やMMT本を読んで頂きたい。

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 

図解 MMT現代貨幣理論の基盤

図解 MMT現代貨幣理論の基盤

 

 

 

図解入門ビジネス 最新MMT[現代貨幣理論]がよくわかる本
 

 


 

 ↓こちらは日本の未来について書いた本。医療と一組にして将来について考えたい人向け。