zunda’sblog ズンダのブログ

zunda’s blog  ズンダのブログ

読書好きな弱者男性の管理人ズンダが古典、小説、批評文、経済、実用書、ガジェット、ゲームを中心に紹介するブログです。ご覧ください。Amazonのアソシエイトとして、当メディアは適格販売により収入を得ています。

「無知の知」で有名なソクラテスはどんな人、思想だったのか?弟子であるクセノフォン『ソクラテスの思い出』を紹介する!

 

 

 

 

 

 お久しぶりです。ズンダです。
 しばらくお休みを頂いてました。

 

 放送もブログも一定程度やったので飽きてしまい、しばらく更新しませんでした。

 その間もずっと本を読んでおりました。

 

 今回紹介する本は古代ギリシャの教育家であり、かの有名なソクラテスの弟子(※他にも、アンティステネス、アイスキネス、パイドン、エウクレイデス、アリスティッポス、そして、プラトンが弟子だった。)であるクセノフォン『ソクラテスの思い出』です。

 

 

 

 ソクラテスってどんな人?

 法律を守る



 「悪法もまた法なり」という言葉を残し、毒杯を仰いで死んだ厚徳(こうとく)なソクラテスの名前は今もなお賢者として後世の読者を持ちつづけています。

 

 「悪法」といっているようにソクラテスはクセノフォンによれば次ぎの廉により告訴され処刑までもちこまれています。

 

 ソクラテスは、国が信奉する神々を信奉せず、別の新奇な神的存在を持ち込むがゆえに不正を犯している。また、若者たちを堕落させえるがゆえに不正を犯している

 

 古代ギリシャ多神教の国でした。


 ソクラテスはダイモーンの神という特定の神を敬神しており、これが周囲の者たちからすると、怪しげなカルト宗教にしかみえなかったのでしょう。

 

 ソクラテスにとってダイモーンの神は「無知の知」を自覚させる警策(きょうさく。座禅の時に修行者の肩や背中をうち集中を促す棒)として機能していました。

 

 「知っている」と思っているものは「実は知ってはいない」のではないか。

 

 ソクラテスはダイモーンの神からこのことを教わり、人々と対話を積極的に行い、知を深めていったのでした。

 

 師を尊ぶがゆえに書かれた本



 そんなソクラテスの実際はどうであったのかを書いた本が『ソクラテスの思い出』なのです。

 

 クセノフォンはこれを書いた理由を冒頭に次のように記しています。

 

 ソクラテスを告発した者たちは、いったいどんな弁論によってアテナイ人を説得し、彼が国から死刑を宣告されるにふさわしいと信じ込ませたのか。私には幾度となく不思議に思えてならなかった。

 


 
 つまり、クセノフォンは師ソクラテスは讒言によって貶められ、処刑された。
 彼の名誉を回護するためにこの本を書いたのです。

 

 ソクラテス文学という作品群



 ちなみに、ソクラテスについて書かれたものはクセノフォン以外にもあります。

 皆さんもご存じかも知れません。

 

 それはもう一人の弟子プラトンによるソクラテスを主人公とした「対話編」と呼ばれる一群の作です。

 

 本屋やAmazonをサクッとみてください。
 新潮文庫岩波文庫、そしてこの古典新訳文庫でもプラトンの本が並んでいます。

 

 これらの主人公の多くはソクラテスです。

 

 なぜソクラテス???

 

 と思うかも知れません。

 

 私ズンダも高校時代、

 

「なんで毎回、ソクラテスが主役なんだ?」

 

 と感じたものです。

 

 更に「ソクラテスを主役にして、プラトンが言いたい放題しているだけでは?」とも。

 

 実はこういったソクラテスを主役にしたものを「ソクラテス文学」といい、古代ギリシャでは200もの作品があったといわれているのです。

 

 先ほど紹介したソクラテスの弟子達は師を主役とした本を書いていました。

 

 その殆どは今では失われ、プラトンの「対話編」とクセノフォンが書いた本書と『ソクラテスの弁明』『饗宴』『家政論』だけが残っています。

 

 世俗的なことを中心にうまい生き方をかたるソクラテス



 閑話休題

 

 この本ではプラトンが描いたソクラテスと異なり、世俗的なことについて語るソクラテスをみることができます。

 

 「正義」や「善」を中心に語るというよりも「節度」「友好術」「教育」を話題にしています。
 
 これはクセノフォンが教育学者だったせいともいわれています。
 彼の書くソクラテスは当然、クセノフォンの思想を反映したものでもあるわけです。

 

 ソクラテスの正体はだれもしらない



 ですから、書かれているようなことをソクラテスが述べていたのかはわかりません。

 ある意味、実話のような創作なのです。


 こうした本物のソクラテスはどこにあるのか?という問題を「ソクラテス問題」といいます。

 

 ソクラテスは本を一冊たりとも残していません。
 
 彼の存在は弟子であるクセノフォン、プラトン、そして、同時代の喜劇作家アリストファネスプラトンの弟子であるアリストテレスによって担保されています。

 

 私たちがソクラテスについての本を読んだ場合、何人ものソクラテスがいるということになります。

 

 現在、信用できるソクラテスについての証言はプラトンの初期対話篇のみといわれています。

 

 このクセノフォンの『思い出』は一九世紀末~二〇世紀初頭にかけて批判され、その史料としての価値を失ってしまったのです。

 

 ※クセノフォンの何が批判されているかについては本書の解説をお読みになるとよろしいでしょう。

 

 さて、私ズンダはこの本、大変おもしろくよめました。

 

 なんといっても、話の内容が俗っぽい。

 私がプラトンの対話篇を読んでいたのは16歳から20歳ぐらいまでです。

 

 新潮文庫岩波文庫でした。

 

 私も若者だったので抽象的で高度な議論が好きで、同級生がはまり込んでいるそのときどきの流行には興味をもたず、このような本ばかりをよんでいました。

 

 しかしながら、プラトンはカントやハイデッガーなどと違いました。

 

 わかりやすかったのです。

 

 アリストテレスはこれらの議論の仕方を『トポス論』で

 

「一般的な考え(エンドクサ)をもとに推論する」

 

   と述べていますが、プラトンやクセノフォンがわかりやすい理由はここにあります。

 

 時がたって、私も抽象的な話にはあまり興味がなくなりました。

 

 むしろ、普通のことを考えるほうがよほど大事だと思うようになったからです。

 

 普通が本気でかたられるべきなのです。

 

 それゆえ哲学書を読みたい場合は、プラトンから読むと本当に面白く読めるはずです。

 

 面白かった部分

 コスモポリタンを論駁する



 さて、この本の中で私ズンダが気に入った対話は以下です。

 

 第二巻・第一章のアリスティッポス
 第三巻・第十一章のテオドテ
 第四巻・第二章のエウテュデモス

 

 

 アリスティッポスはコスモポリタニズムに似た考えを披瀝しますが、彼は次のように反論されます。

 

 「君が人間の世界にいる以上、支配することも支配されることもよしとせず、支配者たちに進んで仕えるつもりもないとしても、君は目にしていると思う。力の強い者たちは、集団でも、個々人でも、力の弱い者たちを泣かせ、奴隷として扱うすべを心得ているということをね」。

 

 ソクラテスアリスティッポスがどこの国にも属さす、旅人として生きることを

「奴隷とかわらない」と批判するのです。

 

 市民として法的にまもられることがなく、労働することもない人間。
 
 そういった人を誰が丁重に扱うというのか。
 それに対してアリスティッポスは次のようにいいます。


 「ソクラテス、あなたは帝王術を幸福[をもたらすもの]とみなしているように思われます。しかし、その技術を教わる者たちは、いやおうなしに苦しい思いをする者たちとどう違うのですか?」

 

 ソクラテスは国による法的な庇護下に入ることで人々は一定の幸せを得られると考えているわけです。

 

 それをアリスティッポスは「隷属」と呼びわけです。

 

 この何にも束縛されずに自由にいきたいと望む姿勢がコスモポリタンらしいですね。
 
 しかし、ソクラテス

 

「苦しみを進んで受けることは、いやいや受けることとは違うと思わないのかね?第一に、進んで飢えている者は、食べたいと思えばいつでも食べることができ、進んで飢えている者は、飲みたいと思えばいつでも飲むことができるのであり、その他のこともそれと同様である」

 

    と返します。

 

 要するにふらふらと浮ついたかたちで生きている人間は、何もかも受け入れるしかなくなってしまいます。
 
 その人には何かをする力がないからですね。
 自由ではあるけれども、それは属していないからであり、力はもっていないから何かを選び取ることはできない。

 

 そういいたいわけです。

 

 ソクラテスが死んだ理由の一端がある



 この後、ソクラテスは先人の言葉を引いたり、逸話をもってきて、彼を論難します。

 

 自説の根拠としては決して強いものではありません。
 正直、アリスティッポスを論破してるとはいいきれない感じです。

 

 ただし、ここで面白いのはクセノフォンが書いたソクラテスの考えでしょう。

 先にも述べたようにソクラテスは「悪法もまた法なり」ということばを残しました。

 

 もしアリスティッポスのような自由人であれば逃げ出したでしょう。

 しかしそんなこともせずに、ソクラテスは死ぬことを選んだ。

 

 このアリスティッポスとの対話はソクラテスの思想を端的に描いていると読めるのではないでしょうか。

 

 あることができることは他のこともできるか

 


 
 この他にもニコマキデスとの対話も好きです。
 
 簡潔にいうと、ニコマキデスとソクラテスのこの対話は

 

「あることに特化した人間は他のことでも優秀かどうか」

 

    という内容です。

 この内容をみて一つ思いました。

 

 個人の能力についてです。

 

 とてつもなく頭のいい人がいる。
 その人がピアノも弾ける、運動もできる、顔もよい。

 こういう人、たまにいますが、これはなんんなのだろうと。

 

 考えられるのは①遺伝②教育環境などでしょう。

 

 以前にも紹介したように人間の元来の資質は遺伝的要素が大きいのです。

 

 となれば、あることができる人は他のこともできる、とは①と②によるものなのでしょう。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 ただしソクラテスは「良いか、悪いか」については「条件による」という見解をこの本では述べています。

 

 ソクラテスに論破された後



 ソクラテスに論破された人というのはその後、どんなふうになるのでしょうか。

 

 

 「あるときアリスティッポスは、以前に自分が論駁されたのと同じようにしてソクラテスを論駁してやろうと思った」

 

 という文があります。

 

 コスモポリタンアリスティッポスソクラテスに言いくるめられたことを恨みに思っていたのでした。

 

 これは別にアリスティッポスだけの話ではありません。

 

 エウテュデモスとの対話(一)の最終段落で次のようにあります。

 

 ところで、ソクラテスによってこのような目に遭わされた人々の多くは、もう二度と彼に近づかなかった。

 

 そういう者たちを彼はなおのこと愚かであると考えていた。

 しかし、エウテュデモスは、ひとかどの人物になるにはソクラテスとできるかぎり一緒に過ごすよりほかにないとおもった。

 

 そしてそれ以来、何かやむを得ない事情がないかぎりは彼のそばを離れず、彼が日頃行っていることのいくつかを真似ることまでしたのである。

 

 ソクラテスのほうは、エウテュデモスのそのような様子に気づくと、彼の心をかき乱すことはできるだけ避けて、知らなければならないと思うことや、行なうのが最善であると思うことを、きわめて簡潔明瞭に説明してやったのだった。

 

 

 とあるように、ソクラテスに反論されてしまうと、誰もが自分の体裁を繕うあまり、彼に近寄らなくなったというのです。

 

 それにしても近づいてきたエウテュデモスには論駁(エレンコス)をしないようにしたというソクラテスの優しさが窺えるような話ですね。

 

 と、このように本書は大変読みやすく、ソクラテスの人柄が偲ばれるような本になっています。

 

 話す内容も私たちの日常に沿ったものが多く、理解しやすいとおもうので、ソクラテス文学の一歩目としておすすめできます。

 

 

 参考図書~もっと知りたい人向けに~



 ソクラテスについて知りたい方は納富氏の哲学史や同時代の言論状況を知ることができる以下の三冊がおすすめです。

 

 それよりも、ソクラテスの思想に直に触れたい方はプラトンがかいた『ソクラテスの弁明』がおすすめです。

 

 マンガ版もあるので、最初にマンガをよむのが一番わかりやすいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 無料でプラトンがよめる!お得なキャンペーンを見逃すな

 

ちなみに、『ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫) Kindle版』および、『マンガで読む名作 ソクラテスの弁Kindle』はアンリミテッドに加入すれば無料で読めます。

 

いま、30日間無料のお得なキャンペーンをやっているので一時的に加入し、30日以内にやめるというテクニックもあります。

 

この機会を逃さずソクラテスプラトンの世界にふれてみてください。
 

 

人生は親ガチャであり、遺伝で決まってます! 安藤 寿康『生まれが9割の世界をどう生きるか』(SB新書)

 

 

 ズンダが昔読んで感動した本

 どういうことがかかれている?



   著者の安藤氏は教育心理学、行動遺伝学、進化心理学が専門です。

 

 私ズンダは以前、この方の『遺伝子の不都合な真実ーすべての能力は遺伝である』(筑摩書房)を読んだことがありました。

 

 読後感としては、

「やっぱり人生って遺伝で、最初から決まってるんだな」

という悲しい気持ちになりました。

 

 それと同時に、

 

「遺伝でその人の能力が程度わかれば、人は自分の性質を活かして生きることが可能になるかもしれない」


 と気が楽にもなりました。

 

 今回紹介する新刊『生まれが九割』も基本的にはいっていることは同じです。

 ただし、内容がわかりやすい。

 

 なぜかといえば、質問に対してこたえるという方式をとっているからです。

 

 Q勉強もスポーツもパッとしません。スクールカースト上位の人が羨ましい。結局、そういう才能って全部遺伝じゃないんですか?
 
 Aはい、すべて遺伝です。正確に言うと、全部に遺伝が関わっています。遺伝が関わっていない才能はありません。では、遺伝とは何でしょう?

 

 

 というふうに安藤氏が疑問にこたえていくからです。

 

 数年前に出たマイケル=サンデルの本『実力も運のうち 能力主義は正義か?』以降、少なくともネットでの意見は少しずつ変わったような感じがします。


 その前までは

 

・「自己責任」
・「努力が足りない」
・「努力の仕方が悪い」

 

 

 というものだったのが、「親ガチャ」という言葉に代表されるように、

 

「個人ではどうしようもない一種の運命に翻弄されるのが人間なのでは」となってきたように思われます。

 

 人間はどうしようもないけれども、生きていくしかない存在



 私ズンダはこのズンダブログやyoutubeの動画などを通して、自己啓発を批判してきました。

 

 その訳は、こういった教育心理学や行動遺伝学などの見地からみると、

「努力程度ではどうにもならないのが人生」

 という結論がでているからでした。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 例えば、当ブログで扱った「スプラトゥーン2」というゲームのがあります。

 

 このゲームについて、私ズンダは

 

「才能がない人は無理してやるべきではない。努力や方法でどうにかなるものではない」

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

 

 と際限なく述べてきました。

 

 これに同意する人も案外いましたし、反論する人もいました。

 

 ただし、反論する人はyoutubeでのコメントが多く、大体、中高生ぐらいでした。

 中高生は当然、右も左も分からないので、まあ、しょうがない。

 人生に希望がもてる唯一の年代で、挫折を経験していないからです。

 

*1

 

 

 本の内容について?

 遺伝は何をしていても必ず関係するー環境のせいではない。遺伝のせいだー



 

 長くなりましたが、この本については軽くかきます。

 

 基本的に安藤氏の考えでは以下のものです。


 人間はなんであれ、遺伝が関係している。

  遺伝を無視して、人間の能力を捉えることは不可能である。

 

 といったものです。

 

 上で触れたマイケル・サンデルの本にしても安藤氏は「遺伝の話があっさりしている」と指摘します。

 

 能力開発などでよくいわれる「環境を変えろ」というものがあります。
 
 ですが、環境を変えたところでその人の遺伝が関係しています。


 
 同じ環境にしても、その人の遺伝によって、見える風景は違うのです。

 遺伝を無視すると、環境をそろえれば「何でも出来る」と思いがちですが、それはあり
ません。

 

 行動遺伝学者は、「アンチ環境絶対論者」です。つまり環境さえ変えれば人間なんて都合良くいかようにでも変わるとは考えません。自分が意識している/してないにかかわらず、人間の遺伝的素質は常に発言されています。(一五三頁)

 

 

 ということなのです。

 

 そのため、環境を変えたからといって、人生が変わるわけではありません。

 

 本書を読むに当たってだいじな用語4つ!



 

 ここで本書で重要な用語の説明を適度になおしながら引用しておきます。
 遺伝、共有環境、非共有環境の三つです。

 

 

・遺伝
 人間の遺伝子は、DNA(デオキシリボ拡散)のA(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)という4種類の塩基の長い組み合わせによって作られ、23組46本ある染色体の上に乗っています。父親と母親の体内で精子卵子が作られる際、ペアになっている染色体が2つに分かれ、そのどちらかが1つがランダムに選ばれる減数分裂が起こります。

 

 染色体が分かれる時、ペアとなっている染色体のところどころで、これまたランダムに組み換えが起こって遺伝子の配列がシャッフルされます。このようにしてできた精子卵子が受精して受精卵となることで、父親、母親の持っていたのとは異なる遺伝子配列が子どもに受け継がれます。こうして子どもに受け継がれた遺伝子の組み合わさり方を「遺伝子型」と言います。
 

 どういう遺伝子型を持っているかによって、子どもにはさまざまな「形質」が現れてきます。形質というのは、個体に現れてくる形態や機能の特徴のこと。観察できる形質のことを「表現型」と言います。(中略)子供が親から受け継ぎ、子供自身に独自の組み合わせとして生まれつき持っている遺伝子型の全体を遺伝だと考えてください。

 

 ・共有環境
 家族のメンバーを「似させようとする方向に働く環境」。

 

 ・非共有環境
 家族のメンバーを「異ならせようとする方向に働く環境」

 

 ・遺伝率
 遺伝による説明率のことを遺伝率という。

 

 遺伝率をチェックしよう



 さて、皆さんが興味をもっているのは、自分の遺伝がどのぐらい環境によって直すことが出来るのかと言うことだと思います。

 

 特にお子さんがおられる方などはいかにして

「子供を優秀にできるのだろう」と考えていらっしゃるでしょう。

 

 ここで遺伝率をみることが大事になります。


 遺伝率が80%の形質は、遺伝率100パーセントの形質に比べれば、環境を変えることで変化させられる可能性があります。

 

 さらに、遺伝率50パーセントの形質は、80パーセントの形質よりも変化させやすくなります。


 言い換えるなら、遺伝率が高い形質ほど、変化させるのが大変ということになるわけです。


 
 ただしもう少し正確に言うなら、それはいまあなたのいる社会にある環境のバリエーションの中での変化のしやすさです。餓死寸前の環境といつでも食べきれないほどの食べ物のある環境が両方あるような差が著しい社会と、ほとんどすべての人にほぼ均等に十分な食糧がいきわたる社会を比べれば、前者の方が環境の振れ幅が大きい分、遺伝率は小さくなります。遺伝率とは純粋に生物学的な定数ではなく、環境の変動の大きさによっても違ってくる値です。

 

 

 と書かれています。

 

 体重の遺伝率は9割です。

 

 でも、もし餓死が頻発するような国にいた場合なら、さすがに肥満になるのは難しいというわけです。

 

 ただ、もし日本のような国にいれば話は別でしょう。
 思いっきり遺伝の影響を受けるようになります。

 

 学力は環境か遺伝か?



 実は学力問題の難しさはここにあるわけです。

 

 国民国家以降、政府は国民を作ることを目途にします。

 私たち日本人が「国語」をならったり、「日本史」をならっているのは、

「日本人を作るため」です。

 

 その結果、義務教育が整備されはじめました。

 

 

 今までは「お金がないから教育を受けられない。」あるいは「そんな機会が与えられていない」というものが、全ての人間が教育を受けることが可能になったわけです。

 

 すると、環境による問題ではなくて、遺伝による差が、私たちの現前に現れるようになってしまったのです。

 

 要するに学力差は「遺伝の問題」としてわかるようになってしまった。

 

 このブログでも何回かとりあげたマシュマロ実験というものがあります。

 

 コレに似た実験でコロラド大学の三宅晶教授がやったワーキングメモリ(情報を一時的に保存する記憶力のこと)の実験があります。 このワーキングメモリが強い人ほど衝動的な行動を抑制することができるのです。

 

 これは就学前の教育がどれだけ価値があるのかを教えてくれます。すると、教育とはほぼ関係なく、遺伝による差がほぼ100パーセントだったとのことです。

 

 つまり、頭が良い子は遺伝的に頭がよいということです。


 この本を読むと何が分かるか?



 

 ここまで見てきたように、遺伝はすべてにかかわります。

 先ほど述べた体重は9割が遺伝率であることを踏まえると、次のようなことがいえます。


 太っている人がダイエットしたい。だが、それは現実的ではない。

 

 ということです。

 

 勿論、環境があまりに特殊であれば話は変わってきます。

 

 貧民国であったり、致冨な家で酒池肉林が繰り返されていたりするという極端な環境であればどうにかできなくもない。

 

 ただ、それですら、痩せにくい太りにくいという差が遺伝で9割、でてきてしまうのです。
 
 となると、次のようなことが人生においていえるわけです。

 

 あなたはAを達成しようと頑張っているが、それを達成するための遺伝率があまりよろしくない。親から受け継いだ遺伝とは異なる方向へ行く「非共有環境」はたったの5パーセントだとしたら、あなたはAを目指す余裕があるだろうか?

 

 

 この考えは限られた人生において非常に重要ではないでしょうか?

 世の中には出来ること出来ないことがあります。

 

 「自分にはこれ、できるかな?」と思ってみても、遺伝率でみたら「むりだな」ということはあるわけです。

 

 体重の遺伝率が9割だと分かっている。
 その人が太る遺伝だとしたら、痩せる非環境共有は残り1割です。

 

 この1割のために自分の力をどこまで割くことが出来るのだろうか?

 それをよく考えなければならない。
 
 残念ですが、人にはそれぞれ「箱の大きさ」が決まっているのです。

 その箱の大きさのなかでしか、私たちは動けない。

 

 そしてときたま、何らかの偶然によって箱から抜け出る人や、別の方向へいくことがある。

 それゆえ、「ガチャ」なのですね、人生は。

 


 終わりにー能力がないと生きていけない社会は失敗した社会ではないのかー 
 



 

 こうした経緯から安藤氏は現代社会の問題点について次のように述べておられます。

 

 

 好奇心の強さ、パーソナリティの新規性もまた遺伝の影響を強く受けていますし、さらに言えばパーソナリティは非能力、つまり学習によって変えづらい形質です。

 

 リスキングを推進したい政府や企業は、「デジタル技術を活用して、価値を創出できる人材になる」、「人生100年時代、新しいことを学び続けよう」などとアピールしますが、自分の興味関心がすでに標準化されてしまった「DXでの価値創造」とやらにマッチするとは限りません。

 

 「常に新しいこと学び続ける」というのは言葉としては美しいですし、正しいようにも聞こえますが、全員が適しているとは考えにくく、必ず遺伝的な差が出てきます。

 

 

 そもそも論で言うなら、人より抜きん出た能力を伸ばして輝くという考え方そのものに無理があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 これは至当な結論でしょう。

 

 もとより、我々は、

 

 自分の能力が伸ばせると思い込んでいるほうがどうかしているのです。


 実際は、大して伸ばせない。
 
 それどころか、老化によって能力が落ちていくのが普通なのです。

 

 しかし、別に絶望する必要はありません。

 

 今までの「やればできる」という考えがあまりにも楽観的すぎただけなのです。

 そんなことはありえない。

 

 

 ありがたいことに、私たちは別段、突出した能力がなくても生きていけますし、満足した居場所をつくることは無理ではないはずです。

 

 Twitterやyoutoubeなどをみて、自分より優れた人々がいる。

 絶望する人もいるでしょう。

 

 ですが、こうして行動遺伝学などの結実を学ぶことで、冷静に物事をみられるようになるはずです。

 

 更に言うと、凡人が社会に求めるべきことは選ばれた人間のみが生きられる社会ではなく、凡人が真っ当な人生を歩める社会を求めるべきだということも、ここから導きだせるはずです。

 

 

 それに関しては他の記事や参考図書をあげておきます。

 

 では、またお会いしましょう。
 ズンダでした。

 

 関係記事および参考図書

↓格差をなくすためには運動しなければならない。単なる言論活動だけでは世の中は何も変わらないことを記した本。

 

 

 

 ↓優生思想による明治以降の恋愛や結婚について記した本である。

zunnda.hatenablog.com

 ↓遺伝でうまくいかないけども、環境をどうにかして、あがきたい。

 そんな人はこの本を読んで欲しい。

zunnda.hatenablog.com

 

 ↓「ムダな努力をした」と私ズンダが思っているスプラ2の記事。これを読んで、私の放送にくる人は多い。努力に価値があると思っているのは「バカと暇人だけ」といいたい。

zunnda.hatenablog.com

 

 ↓自己啓発の馬鹿らしさを指摘した本。夢見てないで、普通に生きろ。

 

zunnda.hatenablog.com

 


 
 ↓境界性知能について書いた本。人の人生は自由ではないし、人の知能によってはどうしようもできない人々がいる。

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 ↓「親ガチャ」があることを統計的に示した本。また、デジタル教育や英語教育についてもそれぞれの専門家が書いており、素晴らしい。教育に興味のある人間は必読である。

zunnda.hatenablog.com

 

*1:

※ただし、本当に一生懸命何かをしたり、洞察力が優れていれば、人生が思うようにならないということは中高生でも理解していていいはずではないだろうか。十年そこそこ生きていて、絶望や挫折を感じていないのだとすれば、このような意見に対して反発心を抱いてしまう理由は二つしかない。


①才能があることのみをやることができた。

②難しいことに挑戦した経験がないので座礁せずに済んだ

 

このどちらかであろう。そう考えているので、私ズンダは彼等を相手にしていない。そもそも、反〈論〉ですらない。

「人それぞれ」は思考停止であり、逃げである。山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか?』(筑摩書房)を紹介する!

 

 

    学校でも会社でもTwitterでも、
 どこの場においても「人それぞれだよね」という結論が出される瞬間、ありませんか?
 
 私ズンダは子供の頃から、この言い回しが嫌いで、「じゃあ、喋らすなよ」と思いながらきいておりました。

 

 突拍子もない意見なのか、自分の発言ことは人から受け入れられることが少なく、相手と話していても結句、「人それぞれ」といわれて物足りなく感じました。

 

 今回紹介する本はこの「人それぞれ」が正しいのか?ということがかかれています。

 

 結論からいうと、著者の山口氏は「正しい」と考えておられません。

 

 いったいそれはなぜか?

 

 見ていきましょう。

 

 

 

 

 一九六〇年代に相対主義が広がる

 相対主義とは「人それぞれ」という主義のことです。

 

 第二次世界大戦後に植民地諸国が独立戦争のけ、次々と独立していった時代であり、拘引兼運動(アメリカにおける黒人の権利運動)やフェミニズム運動(女性の権利運動)、さらには同性愛者の権利運動が盛り上がった時代でもありました。

 

 ここにヴェトナム反戦運動も加わります。一九六八年には運動はピークに達し、世界的に学生や市民の大規模な反乱が起こります。

 

 

 つまり、昔は「女は家にいろ!」「黒人はひどい扱いを受けるのが当然」国家のために戦争で死ぬのがふつう」といった価値観があったわけですが、時代は変わり、人々は「杓子定規で決まった考え方はただしいのか?」という疑問をもちはじめます。

 

 という背景があります。


 うちのブログでもよくとりあげられる一九六〇年代です。

 

 今SNSで騒がれているフェミニズム(ツイフェミ)やキャンセルカルチャーなどはこの時代の流れを汲んでいます。

 

 「女性の権利を!」とか「差別反対!」とかです。


 
 運動初期の段階では「黒人」対「白人」「男性」対「女性」といったものでした。

 

 徐々に多数派集団と少数派集団の対立ではなく、「人それぞれ」という考えが蔓延してきます。

 

 「内輪もめ」が始まったからです。

 

 異議申し立てを行っていた集団内部で、さらなる多様性が発見されていきます。

 

 たとえば、女性の権利運動を行っていた「女性」たちの内部で、「黒人女性」たちが「白人女性による支配」を告発しはじめました。さらに、「白人女性」といっても、高所得の人と低所得の人とではやはり立場や利害関係が異なります。

 

 というように、大きな枠では捉えきれない細かな違いが運動途中で意識されはじめ、彼等は分裂してしまいます。

 

 結果として運動の目的であった黒人や女性や同性愛者への権利は重要である、という考えは浸透しました。

 

 ですが、異なる個人が連帯しつづけるという課題が残ります。

 

 フランス現代思想新自由主義



 この後、ジャック・デリダやドゥールズやガタリに代表されるフランス現代思想がはやります。

 

 彼等はこの問題を考え、論理や言葉をあえて組み替えることで人の思考の枠組みを変化させ、解決しようと目論みました。

 

 ですが、相対主義的な要素は新自由主義に絡め取られてしまいます。

 

 一九九〇年代に入るとアメリカにおいて新自由主義が隆盛を極めます。

 

 これらは経済学者のミルトン・フリードマンリバタリアニズムの哲学者ロバート・ノージックの思想を背景としています。

 

 要するに、

 

「自由で人それぞれな世界において、国家の介入は殆どないほうがいい。国家の権力が強まるよりも市場に任せておけば物事は合理的に推移し、万事うまくいきやすい。」

 

 という考えです。

 

 山口氏によれば現代思想は「自由だけで無く平等の理念を重視していた」が「新自由主義はその名のとおり自由を偏重し、平等を軽視します。」というものらしいのです。

 

 しかし、先ほどもみたように、一九六〇年代の公民権運動やフェミニズム運動があり、「自由こそが素晴らしい」という流れに新自由主義はぴたりと合致してしまったわけです。

 

 こうして一九六〇年代の運動は一九九〇年代の新自由主義に吸収されていきます。

 

 新自由主義は、個々人の自由を偏重して平等を軽視します。

 

 個々人は、他人に迷惑をかけない限りを何をしてもよいと考えます。これは、一見すると他人を尊重しているように思うかもしれませんが、要するに他人と関わらないでおこうということです。(中略)つまり、新自由主義こそが「人それぞれ」の思想だといってもよいでしょう。

 

 ↓これらのことをもっと詳しく知りたい方は私が書いた記事を読んでください。

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

人それぞれというが、共通した部分がかなりある



 そして日本においても新自由主義は伸張します。

 

 鉄道や郵政の民営化、国家公務員の削減。

 金子みすゞの詩「みんなちがって、みんないい」(私と小鳥と鈴と)などがでてきます。


 でも、人はほんとうに「それぞれ違う」のでしょうか?

 人は実はそんなに違はない、のです。
 
 第二章をみてみましょう。
 
 サピア・ウォーフの仮説とよばれるものがあります。

 言語学者のサピアとウォーフの名前を合わせてつくられた仮説です。

 

 これは「言語が違えば世界が違ってみえる」という言語相対主義をあらわしています。

この続きを読むには
購入して全文を読む

日本近代の恋愛と弱者男性と優生思想とのつながりとは!? 阪井裕一郎『仲人の近代』を紹介する!

 

 

  こんにちは、ズンダです。

 

NOTEに「優生学と弱者男性」と題した文章を上げました。

note.com

 

 

 恋愛は優生思想である、という考えを基にした文です。

 

 この考えは私ズンダが創発したものではありません。

 

 明治時代からありました。

 

 いや、遡れば優生思想のような考えは有史以来、いくらでもありました。

 

 進化心理学によれば、人は誰かと恋愛したり結婚したりする際、無意識的に相手の遺伝子に惹かれているといわれています。

 

 

 

 良い子孫をつくれるかという観点から本能が判断しているというのです。

 

 そう考えれば、私たちは本能的に優生思想をもっているといえるでしょう。

 

 一方で、これを意識的に語ることがあれば、その人は優生思想の持ち主としてナチスと同類扱いされるようになります。

 

 ですが、優生学自体はナチスがつくったものではありません。

 

 当時の科学者や医者にとっては最先端の思想であり、彼等が目指すべきものでした。

 ↓優生学について知りたい人は必読の本。必ず読んで欲しい。

 

 そして、その影響は日本にもやってきます。
 今回紹介する本は阪井裕一郎『仲人の近代』です。

 

 

 遺伝と結婚

 優生学が世界的に流行る


 
 優生学(eugenics)は1883年にダーウィン
のいとこであるフランシス・ゴールトンが提唱しました。

 

 ゴールトンは優良な人種や血統が繁殖する機会を与えて人類を改善する科学をつくりだすことにありました。

 

 優生思想について誤解されがちなのが、ナチスと結びつけられるところです。

 

 優生思想自体は当時の先進国の流行であり、ナチスに限らず普通の考えだったことは知っておくべきです。


 日本においても優生思想は導入されます。

 

 これを結婚と絡めていちはやく語ったのが壱万円札で有名な福沢諭吉です。

 引用します。

 

 配偶を選ぶには、現在の身分、貧富、貴賤の如何を問はず、既に当人を是れと見定めたらば、父母、祖先、凡そ四、五世の上にまで遡りて、其家の職業、其家風、其人物の智愚強弱を吟味すること肝要なり。(中略)人の父母たらんとする配偶を選ぶに、心身強弱の家柄を等閑に附するとは、事物の軽重を知らざる者と云ふ可し。(赤字はズンダ)

 

 つまり、

 「結婚相手を選ぶときはその人の親や職業や体の強さを確認するのが大事です」ということが書いてあります。


 まあ、ここまでは恐らく現代人でも納得できるところでしょう。

 

 相手がどんな人かを知るために家族の素性を知ることは重要です。

 気にしない人の方が珍しいのではないでしょうか。

 

 違和感があるのは次でしょう。

 

 強弱雑婚の道を絶ち、其体質の弱くして心の愚なる者には結婚を禁ずるか又は避孕せしめて子孫の繁殖を防ぐと同時に、他の善良なる子孫の中に就いて善の善なる者を精選して結婚を許し、或は其繁殖の速ならんことを欲すれば一男にして数女に接するは無論、配偶の都合により一女にして数男を試るも可なり。

 


 といっています。


 要するに「体が弱い奴は結婚させないほうがいい」と書いてあるわけです。

 

 これを今いえば相当な反感をくらいそうです。
 
 ただ福沢諭吉は妾をもつ風習を非難し、「一夫一婦制」をうったえていたり、

「愛」の重要性なども説いていた近代的な人物です。


 こうした考えは狷狭などではなく、これが当時、最新の考えだったのです。

 

 日本で優生学が普及していくー自由恋愛と媒酌結婚ー

 

 さて、この後、優生学はどんどん日本で広まっていきます。

 歴史学者の鈴木善次氏の研究にのっとって記述されています。

 

 日本ではどのようにつたわっていったのでしょうか?

 それは

この続きを読むには
購入して全文を読む

誰もがダイエットをうまくできない理由を教えます。 堀内進之介『データ管理は私たちを幸福にするか?』を紹介する!

 

 

 

 

 今よりも人生がもっとうまくいっていれば、と思っている人は数多くいるでしょう。

 私ズンダもその一人であります。

 

 けれども、そのためには自分の現状を把握し、能力を向上させなければならない。

 

 能力主義(=メリトクラシー)がどんなに嫌いでも、社会は個人に能力を求めていますし、私たち個人も、何らかの成長を感じることで充実感を得られるようになっています。
 
 何も変わらない日常を愛するには老成が求められ、

 若い血潮にとって「変化なき日常」は苦痛なのです。

 

 では、いったいどうすれば私たちは幸福感を得ながら、立派な水夫として人生の航路を漕いでいけるのでしょうか。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 今回紹介する本『データ管理は私たちを幸福にするか?』は自己の状態を細かくデータ化することにより人々は幸福になれるといいます。

 

 

 これは個人だけでなく、社会全体にとっても利益があると主張されている点が重要です。

 もちろん、このデータ化は政府や企業による個人情報の支配や漏洩につながる可能性もあります。

 

 危険性や倫理性の検討も本書では行われています。

 

 それゆえ、この本の副題には「自己追跡の倫理学と銘打たれているわけです。

 この記事では全体をざっくばらんに理解できるよう紹介していきます。
 
 自己の成長に興味のある方には必読です。

 

 努力すればできる!はウソである


 「できるようになる」ためには?



 

堀内氏は、人間は自身の意志を強く持つことで何かができるようになる生き物ではない、といいます。

 

 コロナ禍における自粛を例にあげています。


 「COVID-19コミュニティモビリティレポート」というGoogleマップから取得したデータをもとに人々がどれだけ移動していたかをまとめたものです。

 

 これをみると、自粛をしていた人々の割合が大凡わかります。

 

 第一回目の緊急事態宣言が発令された二〇二〇年四月七日から五月二十五日の東京都の人では、「辱場」では40%減、「小売店と娯楽施設」・「公共交通機関」では約60%減だった。

 

 しかし、その約一年後となる二〇二一年五月六日から六月一七日のデータでは、「職場」では22%減、「小売店と娯楽施設」では27%減、「公共交通機関では31%減になっている。

 

 外出自粛の割合は一年ほどで緊急事態宣言の発令時点のおよそ半分になってしまったわけだ。

 

 

 私たちは最初期の段階ではコロナに怯え、自粛を積極的に行っていました。

 

 ですが、時間が経つほどコロナへの恐怖になれたり、コロナの実態がそこまで恐ろしいモノではないと考えたりした結果、自粛する人々が減っていきます。

 

 そして「コロナ疲れ」と呼ばれるように自粛に飽きてしまい、街へくりだすようになったのです。

 

 もっと適切な例で言えば、ダイエットでしょう。

 

 運動をしたり食事制限をすればいいのですが、これを続けられる人はごく一部であることは言を俟たないでしょう。

 

 アクラシアを矯正するセルフトラッキングという考え



 この「わかっているにもかかわらず、できない」状態のことを古代ギリシャ哲学で「アクラシア」といいます。

 

 アクラシアとは「自制心のなさ」をいい、

 アリストテレスによれば

 

「ある行為を悪いと知りながらも欲望のために行ってしまう心の傾向」

 

 ということになります。

 

 では、私たちはどうすれば「できる」ようになるのでしょうか?
 
 ある方向へ行きたいと思っているのにそれができないのだとすれば、つらいですよね。


 そこで出てくる考えが「セルフトラッキングです。

 

 自己追跡と訳されるこの言葉は自己を客観視することで、今現在の問題解決方を取りやすくなる方法です。

 

 そして、この考えの根底にあるのは「環境」です。

 

 人は環境によって形づくられる生き物です。 


 孟子の「朱に交われば朱く染まる」や「孟母三遷」などの故事諺でも散々いわれています。

 

 こういう考えを受けて、政府が行政的に介入することを

 

 「神経政治学」=ニューロリベラリズム(神経自由主義

 といいます。

 

 人によっては「ナッジ」(=環境アーキテクチャで知っておられるかも。

 

 行動経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーの二人が共著者である『実践 行動経済学』という本があります。

 

 それをきっかけに有名になった概念です。

 

 一例を挙げると、タバコのパッケージがいいでしょう。

 

 海外におけるタバコのパッケージは「肺ガン」の写真などが掲載されており、非常に恐ろしい箱で、タバコを買おうとした人が「こんなふうになりたくないなあ」と思って購入を躊躇するようなものになっています。

 

 要するに、人の行動に対して

 

「こうしたほうがいいよ!」

「それしたら、まずいよ!」

 

 

 というメッセージを密かに導入する方法、これをナッジ(ちなみにナッジは、nudge=小突く)というのです。

 

 アメリカやイギリス、オランダなどでは積極的に導入されており、検証チームのようなものもつくられています。

 

 

 定量化された自己(=QS)とはなにか


 モラルアドバイザー(助言者)の存在



 

 私たちは、IoTやスマート家電やIoMや自動運転など、ある程度の自律性を備えた賢い装置に囲まれつつあります  


 
 むろんこれらは人間の代わりになるものではありません。


 
 しかし、私たちを「補完」する役割は果たせます。

 

 本当に身近な例でいえば、目覚まし時計です。

 

 私たちが自力で朝の七時に起きられるのであれば、こんな時計はいりません。

 

 しかし、実際はそうではない。
 どうしても朝が弱かったり、夜が遅かったりすれば決められた時間に起きることができないことは多々あるわけです。

 

 そのため、私たちは目覚まし時計をつけます。

 

 この本で述べられている「セルフトラッキング」とは自己をこういった装置によって「補完」し、生きていくということです。


 私たちの「ダメさ」をなおざりにするのもー教育現場に丸投げして無理強いしたり、「ダメさ」とは無関係に作動する社会制度を模索したりするのもーもはや限界である。

 

   それゆえ、しばしば期待されるような(おそらく不可能な)個人の学習性高潔さに拘泥せずに、あるいはエリート主義的な分断統治を甘受せずに、私たち自身に補助具を加えることにも、解放的な価値があると認めるときが来ていると思のだ。

 

 

と堀内氏は主張します。

 

 更に哲学者スピノザの著書『知性改善論』を本歌取り『現代の知性改善論』をうったえます。

 

 不確実な状況の中で最善と思われる結果を達成するために、私たちの記憶力や、知能、意思決定、知覚(認識)、判断を、改善または補完する技術。

 

 これらの補完は私たちの意思力とやらではなくて、装置によって行われるわけです。

 

 本書では、技術をテクノロジーの意味で用いている。しかし、実践的には技術を用いたライフハックでもあるので、むしろちょっとしたコツやテクニック(つまり、tips)にまで拡大しても良いかもしれない。

 

 こういったテクノロジーというのは身の回りにもよくありますね。

 

 たとえば、血圧計だったり、コロナ禍で各家庭に広まったパルスオキシメーターなどです。

 

 本来は病院にいかなければ判明しなかった体の変調は家庭にいながら気づけるようになった。

 

 こうした「生体情報」を私たちは個人で把握できるようになっているわけです。

 

 これらから与えられる数値、定量化された情報のことを

  「QS=Quantified Self)」というわけです。

 

 当然、血圧が高ければ食生活に気をつけなければならない。病院で薬をもらわなければならない。

 

 その行動や気づきをテクノロジーが教えてくれる。
 
 それがQSなのです。

 

 これは価値があるでしょう。

 

 Apple Watchをつけていたことで救われた命もあります。

japan.cnet.com


 

 このQSは今や世界的なムーブメントになっています。

 

 

その発端は、『Wired』誌の編集者であるケヴィン・ケリーとゲーリー・ウルフが二〇〇七年に掲げた理念に基づき、二〇〇八年にウェブサイトが開設されたことである(以下、QSサイトでは、認知向上やダイエット、心拍数、お金、排卵周期と妊娠ん、生産性、睡眠など、多岐にわたるトピックが扱われている。しかし、それに共通のモットーがある。すなわち、「数字を通じた自己認識(self knowledge through numbers)」、あるいは「データ駆動型の生活」である。

 

 

 

 

 QSはQRへー個人から社会へー


 個人活動で終わることがない生活



 

 これだけ聞いていると、個人の人生を健康に富んだものとして役立つ装置だということがわかるでしょう。

 

 ところが、個人の生活だけに終わらないのがQSの魅力なのです。

 

 例えば、読書アプリ「読書メーター」では、読書の感想を書き込むと他のユーザーから「いいね」をもらえたり、コメントをもらえたりする。

 他のユーザーとのコミュニケーションが読書週間を継続させ、アプリの継続使用の動機ともなるわけだ。

 

 

 要するにサービス提供者は実践の広がりの中で、利己的な関心が利他的なものに繋がることを、ユーザーがはっきり意識出来るように使用を変更し始めているのだ。つまり、ユーザーは、セルフトラッキング・データの提供という隠れた貢献だけでなく、動機を生み出すシステムの一部として、より具体的で、より意識的な貢献を促されているわけである。 


 このような、他者との関係性を維持・改善する目的でセルフトラッキングを活用する実践は、QSと対比して、定量化される関係性(Quantified-relationship)」(以下QRと呼ばれている。

 

 

 

 

 QRの特徴は「可視化」「動機づけ」「監視」にあります。

 

 当然、誰かとアプリなどで交流を図ることは、自分がしたことが「可視化」され、それを評価されることで「動機づけ」が起こります。

 

 加えて、それは自分の行動が誰かに「監視」されていることでもあるのです。

 

 ですからQRを論じるときは能力を伸ばすためにヤル気やきっかけだけでなく、

「監視」されているという問題も論じられているわけです。

 

 「監視」と自律の難しい関係ーオデュッセウスフーコーの監視論ー



 この「監視」という言葉をきいて、本ブログや政治や哲学などを好きな方は

「生権力」で有名なフーコーを思い出すでしょう。

 

 政治権力に自身の生体情報を握られ、監視下におかれている。私たちは気づかぬ間に支配されている、という考えです。

 

 しかし、この「監視」が一概に悪いのかどうかは考え物です。

 

 オーストラリアの哲学者・生命倫理学者ジュリアン・サブレスク(ゴッドマシンという思考実験で有名な人)は古代ギリシャホメロスが著した『オデュッセイア』を例に、「自律性」の問題についてかたっています。

 

 本書の記述を約めて要約します。

 

 

 オデュッセウスは航海中にセイレーン上半身が女性、下半身が鳥の怪物たちが棲む島を通り過ぎる必要がありました。


 セイレーンは歌声で人々を誘惑し、うっとりした人を食い殺すという怪物です。

 

 オデュッセウスは対抗するために船員の耳を蜜蝋で塞ぎます。

 そして、自分のことは船のマストに縛り付けました。

 

 島に近づいたところでオデュッセウスは誘惑され部下に対して

「自分の縄をとけ!」と騒ぎ出しますが、彼等はその縄を更に堅固に縛ります。

 

 かくして、オデュッセウス一行はセイレーンの島を通過できたのでした。

 

 

 

 

 というのが、『オデュッセウス』にある逸話です。

 

 この話は何を伝えたいのでしょうか。


 それは「人間の自律性」についてです。

 

 人は自由が大事だ!と腐るほどきいたことがあるでしょう。

 

 しかし、そんなにいうほど「自由に価値」はあるのでしょうか?

 

 自由であれば、幸せなのでしょうか?自由の目的は?

 

 オデュッセウスは部下達に縛り上げられなければ、セイレーンの餌食になっていました。

 

 彼は自分自身に制約をとりつけることで、自分を守ったのです。

 

 これと同じようにセルフトラッキングは技術を利用することで、自分の能力がどの位置にあるのか。何ができて、何ができていないのか。

 

 そして、利他性を帯びたQRにより、一定の制約を受けることで、かえってその人個人の自立性が増す!ということが本書では語られています。

 

 

 

 私たちは自由に価値があるのかどうかを一度考え直すべきときがきています。

 

 本書の紹介はここまでで終わりにしますが、フーコー=監視論、というありきたりな考えについても堀内氏は第五章において検討しておられます。

 

 そのため、興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思いますし、フーコーの使われ方も論者によって差があることは非常に重要な点だとおもいます。

 

 当ブログでも「自律性」については以前紹介しておりますのでよかったらよんでみてください。

 

 では、またお会いしましょう。
 ズンダでした。

 

 

 よりよく楽しむための読書案内

 さて、本書は能力向上にセルフトラッキングが使えるという話をし、更にそこから浮上する「監視」についても筆が及んでいる。

 

 「監視」については第四章以降で十分に語られているので、本書を手に取って読んでいただきたい。

 

 noteで触れてしまった。

note.com

 

 以下、本書を更に楽しむための私ズンダの過去記事および書籍を紹介する。

 

 ↓西垣通、河島茂勢によって書かれた『AI倫理』(中公ラクレ)である。

 自律性についてAIを通じて語った本で、AIから「人間における自律」が浮かび上がるという逆説的な語りが面白い。

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

 

↓AIを通した人間の学習や自律性の違いについて語った本。

 
↓『ナッジ!?: 自由でおせっかいなリバタリアンパターナリズム』という今回紹介した本と関連性のある本。抜群に面白い。特にこの本で語られている「リバタリアンパターナリズム」という語義矛盾にみえるような言葉の由来や、
リバタリアンの目的が、自由によって人が幸福になれるというものだ。だが、その主張は、目的は幸福にあるので、自由にあるのではない。だとすれば、幸福を目的にしてよいではないか」という結論は大いに楽しめた。絶対に読んで欲しい本。

 

啓蒙思想2.0 政治・経済・生活を正気に戻すために』 (ハヤカワ文庫NF)。

保守主義の価値を讃えながらも理性を重視する左翼的なチカラも社会を維持したり、人類の向上には貢献すると述べた本。そのためにナッジなどを適宜利用していくべきと主張する。

 

 

ご存じ、Apple Watch。本書を読んで、セルフトラッキングに惹かれた人や健康事情が気になる人はつかってみてほしい。

 

 
 

 

毎度、おなじみkindleの紹介。読書のお供に役に立つ。

 

 ↓コロナにおける権力のありかたや最新の治療について書かれた本の紹介。

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

パトリオティズムとナショナリズムの歴史をしっていますか? 将基面貴巳『愛国の起源』(ちくま新書)を紹介する!

 

 

 

 皆さんこんにちは、ズンダです。

 

 いきなりですが、「愛国」とは何だと思いますか?

 国を愛することだとはおわかりだと思います。

 

 ですが、この「愛国」という言葉、本来もっていた意味とは違うことをご存じでしょうか。

 

 私たちが「愛国」という言葉を聞くと、どうも戦中が想起され、右翼や戦争好きな愛国者のことが頭に浮かんでしまうかもしれません。

 

 ところが、元来の愛国は意味が違います。


 今回紹介する将基面貴巳氏の『愛国の起源』は、

「愛国」という言葉の思想的な意味や、本来持っていた意義とは異なる使われ方になった理由を明らかにした本です。

 

 

 では、それがどんなものなのかみていくことにしましょう。

 

 なお、引用には適宜、赤字や改行をいれている。

 

 ローマ時代のセネカから「愛国」は始まる


 日本の「愛国」は翻訳語である

 

 まず。「愛国」という単語の元ネタは漢籍にあります。


 その意味は「君主が国を愛する」という意味でした。

 

 つまり、其の国の統治者である王様が国を愛することを「愛国」といったわけです。

 

 今と異なるのは「人々が国を愛する」ではなかったというところでしょう。

 

 これを明治時代の「明六社」の一員であった加藤弘之西村茂樹

 「パトリオティズムの翻訳後として採用します。

 

 以降、「愛国」はパトリオティズムの訳語になりました。

 

 キケロからパトリオティズム論ははじまる

 

 古代ローマの政治家兼名演説兼哲学者であるキケロはこのパトリオティズムについて語るときに無視しえない存在です。


 キケロパトリオティズムを語る際、次のことを前提としています。

 

・共同体を形成して共同生活を営むことが人間の天性である

 

 つまり、共同体を維持するための「公共善」をもっていなければならないのです。

 

 世の中なんてどうでもいい。
 他の連中なんてどうでもいい。

 

 そういう人たちは前提としてはいっていません。

 

 共同体には色んな水準があります。

 友達や隣人、村落共同体や都市共同体です。
 
 キケロが重視したのはパトリア(祖国)」です。

 

 パトリアには二種類あります。

 

・①自然的祖国(平時の生活。自分の生まれ故郷のこと)
・②市民的祖国(市民が法律によって共有する共同体のこと。軍事的行動。祖国を守るために兵士として戦うことも求められる。)

 

 市民的祖国はキケロにとっては共和制ローマでした。
 
 彼は市民として公共的義務を果たすべきだし、祖国のために命を落とす奉仕も大事だと考えていたのです。

 

 この①と②のどちらを優先するかによってキケロ後のパトリオティズムは趣きがかわっていきます。

 

 ただし、キケロは平時の公共的義務のほうが重要視していたようです。
 暴力は獣的なもので人間らしくないからです。

 

 中世のパトリオティズムは軍事的パトリオティズムと共和主義的パトリオティズム


 さて、このあと中世のスコラ哲学者、ガンのヘリンクス、エキディキス・ロマーヌスなどがパトリオティズムについて語り始めます。

 

 この記事では省きますが、彼等の「軍事的パトリオティズム(祖国を防衛する兵士こそがパトリオティズムにおいて重要という考え)を称揚しているからです。
  
 もっとも彼等も、平時に於ける共通善を私益より優先すべきという主張はしております。

 やはり、パトリオティズムで大事なのは「公共善」だというのがよくわかりますね。

 

 そして、公共善を守るためには「暴君」と化した自国の王ですら、敵になるという観点も見逃せません。

 

 同時にこれは、外国人や非国民を敵として糾弾する態度は必ずしも「愛国(パトリオティズムとはいえないことを指しています。

 

 パトリオティズム外国人などを排斥する思想とは無縁なのです。

 

 これはルネッサンス時代の一六世紀イタリアになると

「共和主義的パトリオティズムとして平時のパトリオティズムが花開きます。

 

 一五世紀イタリアの人文主義者レオナルド・ブルーニは

「このような正義と自由はフィレンツェ共和国市民達の努力の賜物である」

 ことをブルーニは認めます。

 

 一方で、

「其の正義と自由の恩恵には外国人も浴することができる」

 と主張しているのです。

 

 この考えは一七世紀イングランドの思想家ジョン・ミルトンも同様でした。


 私たちは愛国ときくと、「自国」「他国」とを分離させ、対抗させる思想だとおもいがちではないでしょうか?

 

 しかし、本来の「愛国」の流れは、そういったものとは異なっています。

この続きを読むには
購入して全文を読む

私たちは弱者を見落としてはないだろうか?御田寺圭『ただしさに殺されないために』を紹介する!

 

 

 皆さん、こんにちは。ズンダです。

 

 今日紹介する本は御田寺圭氏による本です。

 


 

 彼の活躍はTwitterやnoteが主であり、反ポリコレ、反リベラルを基調とした社会情勢を批判しておられる方です。

 

 その文章は抒情的でありながら均整のとれたもので、社会の狭間に落とされた

【描写されない人々】を掬い上げています。

 

 氏の文体には、ある種類の弱者を無視している社会への沸々とした怒りがあり、それが水底から文面に滲みでています。

 

 その文章は潤びていながら、決して易きに流されることがない。

 実に統御されたものです。

 

 ここには不均衡な状態にある人間社会が描かれています。

 

 たとえば、女性の貧困や自殺率が騒がれても、その倍ほど自殺している男性については触れられることが少ない。
 
 または、たまたま成功した障害者が持て囃されるが、一方で生きることに四苦八苦している多くの障害者達は無視される。

 

 「社会の弱者」と思われている人だけが「弱者」といえるのだろうか。

 

 この視点から社会の暗黒面を剔抉しているのが御田寺圭氏なのです。

 

 では、今回はこの本の中にあるマッチングアプリに絶望する男」をとりあげてみましょう。

 

 ちなみにですが、この本の内容は社会の欺瞞をついた本であり、「弱者男性」のためだけの本ではありません。

 

 ※なお、本文の引用に、適宜、改行や赤字をつけていることをお断りしておく。

 


 婚活という無慈悲な作業

 スペックで振られる婚活

 

 この章では、婚活をした結果、女性のことが信じられなくなり

 

「すべての女がサイコパスに見える。もう誰も信じられない」

 

 

 と述べる男性の話が語られます。

 

 彼はマッチングアプリで相手探しをしていましたが、拒否されることが相次ぎ自信をなくしていきました。

 

 「マッチングアプリをやっていると、縁がなかったのではなくて、自分を商品のように品定めされた後で『これ要らない』と捨てられているような感覚に襲われるんだ」

 

 「大学、学歴、会社名、年収――自分ではなくて自分にくっついている数字やスペックしか見られていない。で、そこからようやく会えても、ちょっとでも気に入らないことがあればブロックされるか、なんの連絡もされなくなって終わり。この年になってまだ就活をやらされているような気分で、みじめだった」

 

 こう述懐する男性の哀しさは、モテない男性達であれば誰もが何回も味わったことある悲傷といってもよいでしょう。

 

 特に日本に於いて(海外のことはしらない)は男性からの積極的な行動ーデートに誘う、食事の勘定をもつ、告白するーなどを求める女性が多く、男性側の負担が大きいのです。

 

 つまり、女の人は男性任せで、責任を負うことがあまりない。

 

 しかし、男性は手取り足取り女性のために差配してやらねばなりません。

 この奴隷とも思える行為が男性にとって大きな苦痛なのです。

 

 挙げ句の果てには無視され、嫌われ、ブロックされる

 

 地獄ですね。

 

 勿論、こういったことは以前から行われてきたのでしょう。

 

 しかし、御田寺圭氏は現実とは異なる空間において、それが露呈してしまったと指摘しておられます。

 

 マッチングアプリに代表されるような空間では、現実世界の人間関係ではあるような社会的なつながりの抑止力がきわめて希薄あるいは存在しない。ゆえに、性的関係性においては「選ぶ側」のイニシアティブをもっぱら持っている女性側には、自分が有する権力をあえて抑制する道理がなくなるのだ。

 

 

 御田寺圭氏はこの連絡をくれた男性に対して「そんな女性ばかりじゃないよ」と慰めの言葉をかけたようです。

 

 しかし、近年のコロナ禍のせいで、マッチングアプリ使用者は急増し、おそらく彼のような目に遭う男性もまた増えていると推測されています。

 

 女性優遇時代

 

 また、社会全体として「女をもっと讃えよ」という風潮があることもこの問題に棹をさしています。

 

 女性が男性に対して行う不愉快で、暴力的で、加害的かつ無礼なふるまいは、「有害な女らしさ」とはいわれなかった。咎められたりただされたりするどころか「女性の解放」「ガールズ・エンパワメント」「わきまえない女」などのネーミングを与えられ、社会正義の具体的実践であるとして肯定的に評価されてきた。

 

 

 私たちは現在、女性についてあれこれいうと女性差別主義者」とレッテル貼りをされ、言論封殺の憂き目にあうことが多い。

 

 皆さんも「それは、男性差別ではないか?」という言葉はあまり聞いたことがないでしょう。

 

 世の中で騒がれるのは「女性の問題」だけであり、「男性の問題」は認知されていないか、軽視されるという有様です。

 

 こういった視点を踏まえてニュースや新聞を見るようにしてください。

 

 すると、御田寺圭氏の指摘の鋭さに気づくのではないでしょうか。

 

 

 

 「男性はもっと無害になれ。女性を抑圧するな、女性にとってさらに有益かつ快適な存在になれ。歴史的な加害者としての反省を忘れるな」と申し立てる全社会的なメッセージはじつに功を奏した。現代社会の男性は前世紀とは比較にならないほど女性に対して「ただしく」ふるまえるようになった。

 

 「正しくふるまえるようになった」、その結果として女性と交際したい、結婚したい男性は跼天蹐地するようになり、女性を求めることを諦めます。

 

 男性にとって女性は畏怖の対象となったからです。

 それは同じ人間ではなく、人間でありながらも社会から常に後援されつづける無謬性を得た女だからです。

 モテる男が女を食い散らかし、男性像を悪くした

 

 

 普通の男性達は「正しく」女性と接しなければいけない故に、女性と付き合うことを諦めました。

 

 女性を「讃えよ」という社会になってしまった現在、

 男性は何も言えなくなってしまったのです。

 

 何か言えば、「セクハラ」「女性差別」「女性の権限をないがしろにしている」

と騒がれる時代です。

 

 男性は怖くて女性に何も出来ません。

 

 AEDという人の生命を救うために必要な装置ですら、我々は「セクハラ」といわれることを恐れて、使えなくなってしまっているのです。

 

www.youtube.com

 

 しかし、そんな「正しさ」とは無関係な男性の一群がいます。
 
 「モテる男性」です。

 

 彼らはこんな社会になっていても、男性としての魅力が高く、女性を惹きつける容姿や学歴や年収などを持ち合わせているがために、多くの女性達と付き合い、そして、捨てます。


 御田寺圭氏は、そこで捨てられた女性達の怨嗟がSNS上でドバッと流れ、非モテや弱者男性達が虐げられるはめになっていると推し、擱筆しています。

 

 このような逆風の中にあっても、これまでどおりの獣性の発露を咎められることなく、女性からの行為を独占する一部の魅力的な男性はいまだ存在している。かれらは恋愛至上において多くの女性たちと付き合うが、結婚となると話は別である。言い寄る女性たちを冷酷に切り捨てる。不誠実な扱いを受けた女性たちは、自信の経験をもとに、SNSなどでますます男性の加害性や有害性を糾弾する。その怒りの声を真に受けたのは、女性を弄んだ張本人である彼らではなく、かつての時代なら良縁に結ばれていたはずの平凡で誠実な男達だった。女性の自由に翻弄され、しかし抗議することもできず、歴史的加害者としての罪を背負わされた男たちは、ひとりで生きることを選択していく。

 

 

 終わりにー御田寺圭の役割とは何かー

 なぜ、あることは社会問題になるのか?

 

 つい先日、二〇代男性の四割がデートをしたことがない、という報道がなされました。

 

www.stv.jp

 
 ここでも、やはり男女格差があるのがわかりますね。

 

・男性は40%

・女性は25%

 

 

 という明確な違いがあります。

 

 各ニュースで問題をとりあげていましたが、男女のデート経験の比率が異なる事に関しては触れられていませんでした。


 このように明らかに違いがあるにもかかわらず、それについて触れるメディアは少ない。

 

 いつもなら

 

「どうして、女性と男性で待遇が異なるのか?」

 

 と意気揚々として語り出すはずですが、それがない。

 

 なぜかと言えば「女性のほうが男性より求められている存在である」という事実を認めたくないからですね。

 

 これ認めると、この問題においては男性の方が不遇なことがわかってしまうからです。


 私たちの世界ではよくみれば問題なのではないか?と思われることでも、

 藉藉と騒がれることなく、見それたままの事象があります。


 たとえば、私ズンダが以前にプロゲーマーたぬかなの低身長差別について書きました。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

 


www.youtube.com

 

 この発言は「人権を奪ったこと」が問題とされていましたが、実は多くの人が意識していないことがあります。

 

 「そもそも、女性はたぬかなと同じく低身長を好んでいません」

 

 ということです。


 身長は自身では殆どどうしようもないものです。

 

 それなのにもかかわらず、差別扱いされていないのはどういうことなのでしょうか?

 

 「低身長差別だ!」と騒ぐ人が少ないからです。

 

 先述したように私たちの世界には問題とされる事があります。

 

 しかし、それが「問題扱い」されるようになるためには経緯が必要なのです。

 

 詳しくは『社会問題とは何か: なぜ、どのように生じ、なくなるのか? (筑摩選書)』を読んで下さい。

 

 告発者として

 

 さて、私ズンダは御田寺圭氏の真骨頂は問題提起にあると思っています。

 

 先般、デビッド・ライス氏やすもも氏等が御田寺圭氏について

「解決策が書いてない」という指摘をしておられました。

 

 これに反論して御田寺氏は「解決策は書いてある」と述べておられます。

 実際に解決策があるかどうかはこの本に関しては私はあまり気にならない。

 

 勿論、解決策が書いてある方が読後感としてはすっきりするのですが、世の中には問題提起のために書かれた本や社会情勢を描出するだけの本がありまして、

「解決策がない」という批判は「それは、お前の都合だろ」としか思えず、ちょっと驚いてしまいました。

 

 ※ちなみに御田寺の本を初めに読んだときの感想は、デビッド・ライス氏に近い。ただし、私は「批判することかね?」と思ってしまったのだった。おそらく二人の思想上の立場が違うことによるのだろうが、言論人でもない私にとっては、騒ぐようにも感じられない。別にこういう書き方の本はあるしなあ・・・っていう。

 

 

 昔、大阪の市長を務めていた橋下徹が頻繁に「対案をだせ」といっていましたがそれに準じたものですね。

 

 しかし、先ほども述べたようにあることを問題とみなし、それを広める人間や本は必要です。

 

 講談社文芸文庫に入っているような近代に関する評論本などを想起するといいかもしれないですね。

 

 あるいは昔、筑摩から出ていた日本思想体系のような本。

 これらもだいたい解決策など大して書いてません。

 

 社会として問題にすべき事柄を主張しているだけで、

 最後まで読むと「え、こんな終わりなの?」となってしまうことが多々ありました。


 が、この手の本は日陰に光を当てて、世の最暗黒を外へ引っ張り出すことに価値があるわけです。
 
 そもそも、社会全般の弱い男性に対する問題意識の欠如などは、すもも氏本人がツィートにおいて御田寺氏と同様のことを散々述べており、彼の提案する解決策なども至って普通もしくは突拍子もないものでしかありません。

 

 実際、弱者男性は一般的には認知されてないのです。

 

 第五章「不可視化された献身」の最後に御田寺氏は次のように記しています。

 

 「分断を癒やそう」といった言葉を近頃はよく見聞きする。
 癒やすもなにも、まだ分断の向こう側にいる人の姿をみつけられてすらいないはずだ。

 

 この通りではないでしょうか。

 

 Twitterで男女論を熱く語りインフルエンサーになり、知的営為に耽っている人々にとって「弱者男性」や「キャンセルカルチャー」や「フェミニストなどの問題は一般的かもしれない。

 

 しかし、世間一般の仕事にあくせくしたり、趣味に耽溺している人たちにとって

  これらの問題というのは問題になっていない。

 

 彼らは女性差別」が問題だという認識はあっても「弱者男性」については

 

「なんですか、それ?」

 

 というでしょう。

 

 それほど住む世界が違うのです。

 

 
 デート未経験四割や東大による年収が低い男性云々という研究は、弱者男性ほど恋愛や結婚が厳しいという裏付けであり、御田寺圭氏の警鐘が至当なものであったということでしょう。

 

 それに対して、いまだに

 

弱者男性への支援はなにもはじまっていない。

 

 政治家も庶民も彼らの存在をしらないのです。

 

 「蜻蛉鳴きて衣裘成り、蟋蟀鳴きて嬾婦驚く」という言葉があります。

 

 カゲロウが鳴いた段階で冬の服を織るべきなのに、コオロギがないてから怠けた婦人はようやく気づくという意味です。

 

 私たちも問題には早く気づいたほうがいい。

 

 それによって初めて対策ができるのだし、救われる命もあるはずです。

 

 御田寺圭は終章で

 

 「私は物語を否定するために、この本を書いた。」

 

 といっていらっしゃいます。

 

 物語とは既存の価値観のことです。

 ○○は弱者である、という既存の価値です。

 

 ですが、私たちは弱者が何かを再考すべきときにきている。

 

 見過ごされた疎外者を現すために御田寺氏は本を物したわけです。

 

 それは対策をうむための一手であり、意義深い言論活動であると十分いえるのではないでしょうか。

 

 よりよく楽しむための読書案内と恋愛がらみの記事紹介

 

 ところで、私自身はブログ等で御田寺氏の本やゲンダイの記事を紹介したこと紹介したことがあるが、恥ずかしい話だが、実は彼がnoteで大人気だということは全くしらなかったのである。

 

 この本を購入する数週間ほど前に、はじめてしった。

 

 Twitterもフォローしていないし、noteも読んでいない。

 しかし、Twitterをやっていると、彼の書き込みが誰かのイイネによって、ぐうぜん目に入る。

 

 何をしている人なのか知らないが、人気あるんだなあ・・・ぐらいにみていた。

 

    今度、その人の本が発売される。目次をみる。

 ちょっと買ってみようかな。購入に至る。

 

 それで、この本を読んでみて実に驚いたのである。

 

 「あれ、俺の考えに似ているな」と。

 

 私は男女論に関しては山田昌弘氏や田中俊之氏の本を読んでいく内にブログやTwitter内でも触れるようになっていった。

 

 そもそも遡れば、男女論自体、Twitter上では盛り上がっているが、本田通氏の『電波男』でいわれていることの焼き直しである。

 

 更に、フェミニストの問題なども含めて、男女論について語っていたのは小谷野敦氏ではないだろうか。

 

 

 

 エリック・ゼムールの『女になりたがる男たち』などは、購入した当時、ネットで誰も触れておらず、ブログで本格的に紹介したのは私がほぼ初めてだと思っていた。

 

 ところがここ数年、ネット上の男女論の盛り上がりで、彼ら学者の名前をTwitter上でみることが増えた。

 

 これは新書紹介ブログとしては実にうれしい。

 

 自分のブログは参考になどされていないだろうが、自身が紹介してきた学者や本などが巷間で話題になることはこのブログを書き始めたときからの本願であったからである。

 

 

 

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

zunnda.hatenablog.com

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 今回はじめて本を読み、こういう考えの持ち主だったのかと理解した次第である。

 

 

 

 この本を全て読んだ方は以下の本を読んでみるといいかもしれない。

 似た傾向のことを書いてあり、おそらく満足できるだろう。

 

 

 

 

 

 モテについてマシになる方法とは?

 

 個人的に思うのが、男女論の解決策と終焉というのはみえている。

 

 マクロ的には日本経済の回復や政府による梃子入れ。

 

 ミクロ的には個人による自助努力。

 

 この努力というのも決してひとりぼっちで行うのではない。モテない人がいくら一人で頑張ってもムダである。

 とにかく他人の介添えによる努力しか意味がない。 

 

 その際、モテない男性同士で絡んでも効果がないので、モテる男性に頼るほかない。

 また、近場にそういう人がいない場合は、モテる方法を書いた本でも読んだ方がたしにはなるかとおもう。

 

 

 この手の本、馬鹿にされがちだが、私が昔読んだとき、あまりにも「モテない人側」に自分が入っていることを知り、心の底から恥じた。

 

 たとえば、『モテる技術』の目次をみてもらいたい。

 

 

 この本についてはどこかで書きたいが、私は目次をみるだけでドキリとする。

 非モテであれば、この目次をみただけで「自分ってモテない男の思考なんだ」とわかるのではないだろうか。

 

 そして、私も非モテだからわかるのだが、だいたい非モテの人はこういう本を馬鹿にする。

 

 

「こんな本なんかでもてるようになるわけない」

「こんな程度でどうにかなるほど自分はすぐれてない」

「こんなナンパな本を読むような軽薄なやつじゃない」

逆張りしたい!」

 

 

 実際、こんなので女の子が黄色い声をだして近寄ってきてくれるわけではないのは事実である。

 

 しかし、マシにはなる。

 -100を-99とか-98にして、勝率をあげていくしかない。

 

 残念だが、我々はモテる男とは違う。

 劣っているので、マイナスなのだ・・・・・・。認めるしかない。

 

 少なくとも、目次をみて「自分だ、これ・・・」と思った人は一回、素直になってモテる奴らのいうとおりにしたほうがいい。

 モテない人が一人でがんばっても、モテないままである。

 

 こういうことをしても、彼女ができるかどうかは分からない。

 やらないよりマシというだけであるが、後悔が薄れることは確実なのでやったほうがいい。

 なんでもそうだが、マシなほうがいいですよ、やっぱり。

 

 

zunnda.hatenablog.com

 

 

 

 あと逆張り癖は身を滅ぼすのでやめること。

 ↓私、ズンダのNOTE記事です。

note.com

 

 私自身はここに書いてあることは皆知っているんだろうな、とおもっていたが、最近、Twitterの書き込みやスペース等で非モテ男性の話をみたりきいたりしているうちに、思っている以上に常識ではないのかもしれない、と思うようになった。

 

 そのため、絶版ではあるが、古本屋などでよんでみてもらいたい。

 

 一方で、『モテるために必要なことはすべてダーウィンが教えてくれた 進化心理学が教える最強の恋愛』は今年でばかりの本であり、kindleでも読めるのでいいかもしれない。

 

 どちらの本もだが、女性蔑視の色はほぼない。

 

 

 

 

 また、男女論の終焉は上記に加えて下記の理由で徐々に関わる人が減るだろう。

 

 恋人が出来た段階で大半の人はこの界隈の書き込みに興味がなくなり、疎遠になる。

 

 また、結婚し、子供ができればなおのことそうなる。

 

 というか、男女論というのは結婚して子供がいる人たちからすれば、どうでもいい話なんだろうと思わないでもない。

 

 もはや、立っている舞台が異なる。

 

 子育てに忙しい男女からすれば、中学生~大学生ぐらいで経験し終わってしまう恋愛云々の話を、二十代後半~四〇台あたりの未婚やモテない人々が騒いでいる。

 

 そんな彼らをみて、既婚者がどんな気持ちでいるのかは気になるところである。